ネット衆人環視社会の息苦しさ

2015年9月8日 7時30分
 
shinriijime

KNNポール神田です!

2020年の佐野氏の申し出によるオリンピックエンブレムの取り下げは、一部のネット民の勝利のように報道されることが多いが、それは違うと考えている。むしろ、それは、「ネット上での衆人監視社会のはじまり」のように感じる。

■日本人はイジメることが大好き
日本人のイジメが陰湿化する一番の大きな理由は「集団心理」にあると思う。「みんながしていることは正しく、みんながしていることを自分もしなくてはいけない。みんなと違う人は正しくなく、みんなが直してあげなくなてならない」的な力学が働いている。これって、長い長い間の日本の村社会の独自のカルチャーではないだろうか?

「後ろ指をさされないように生きる」「波風たてないように…」という本質ではないところに気を使う。「五人組」や「隣組」の悪癖が21世紀にもはびこっている。これは管理者側からすると最小ユニットで監視しあい、自治が保てる。密告を恐れ、疑心暗鬼の中で法令を遵守させるのに都合のよかった仕組みだ。

これはまた、日本人特有の「空気」なのかもしれない。吸うための空気を読み込まなくては日本では生きていけない。しかし、これは「差異」を認めない、「異端」を認めないという一種の鎖国に近い感情でもある。異端を諭す側に回りさえすれば日本では常に安全なポジションを得ることができる。
 
それが、現在、ネットの力でさらに増幅され加速化されている。いわば、ネットでさらに隣組が強固となり、ソーシャルやSNSのプラットフォームではフォロワーも含めて互いに「衆人環視」しあっている状況だ。

■「衆人環視」はマスメディアの「特権」であった
かつて、一般国民はメディアというパワーがなく、安保法案で国会の前でただ集まることしか出来なかった。しかしそれが、今は国会の前で集まることもできれば意見をフォロワーに向かって飛ばし、共鳴されるとそれが自然に拡散される「しくみ」を手に入れた。

すでにそれが、社会現象としての母集団を形成してしまうとマスメディアはその動きをいち早く報道することによって、「ネットで話題」「ソーシャルで話題」と、かつての「アメリカで大流行!」の同じ文脈で取り上げるようになった。一部のリアルを代表する、暇な声なき声が、突然、最大化されて増幅し暴れ始める。

■ニュースにならない些細な事がニュースになる時代
かつてバッシングは、マスメディアにしかできなかったスキルであり芸当だった。「一杯のかけそば」の作者はスキャンダルと共にこの美談のエピソードもふくめてまるごとマスメディアによって拡散され、一気に消し去られてしまった。
 
2006年、朝青龍の休場しながらモンゴルで中田英寿とサッカーをした話もマスメディアがバッシングし、ワイドショーの視聴率に貢献してきた。そこにはソーシャルは介在できなかった。それは日本のtwitterのブレイクが2010年だったからだ。
 
そして、それ移行大きく変革する。ブログや2ちゃんねるの一部のネット民だけではなく、ネット上のソーシャルメディアが威力を持ち始めてきてから、イジメの構図が大きく変化する。市井の普通の人たちが、twitterやfacebookで、冷蔵庫に入るアルバイト学生を「バカッター」としてバッシングを始めたのだ。かつての大人社会であれば、学生バイトのいたずらにそんなに目くじらを立てることがなかった。

また、そんな些細なことがニュースになることもなかった。そんな些細な事がネットで大騒ぎになるからニュースになってしまうのだ。誰もが、見に覚えのあるような些細なイタズラが大騒ぎになる時代だ。スマホを片手に誰もがスクープを狙うパパラッチ化してきた。報酬ではなく、ネタにいいね!やRTされることを期待しつつ。

誰かが血祭りにあげられるのを待ち望むようになった。2ちゃんねるの掲示板で炎上情報をみて書き込みでイジめる時代から、自分のソーシャルでイジメを拡散できるようになったものだからタチが悪い。さらにスマホで決定的ない異物混入の写真は一気に拡散される。2014年のペヤングやマクドナルドのプラ片混入は記憶にも新しい。

昭和の時代、虫の混入やビニールやプラスチック、髪の毛の混入は当たり前で大騒ぎすることではない。しかし、今やその場のいやなイメージがソーシャルで拡散され、企業にとっては致命的な損害となった。

■2014年からソーシャルで抹殺された佐村河内守、小保方晴子、佐野研二郎
ゴーストライター問題で、佐村河内守はメディアならず、ソーシャルからもバッシングされた。障害者であるかないかは音楽とは関係がないにもかかわらず。しかしNHKをはじめとするメディアは「現代のベートーベン」と持ち上げながら蹴落とした。

ゴーストライターは話がこじれなければ、発覚しなかっただけの話だ。小保方晴子も当初「リケジョブーム」を牽引した。STAP細胞も小保方女子でなければここまで話題にならなかった。しかし、それが一気に魔女裁判化していった。同時に「理研」という組織の飯櫃な組織構造も明るみとなる。

結果としては小保方氏のトカゲのしっぽ切りで理研は存続し、予算を得ている。そして、佐野研二郎氏だ。筆者も画像検索の記事や、コスタリカ博物館の記事でバッシングに結果として本意ではなく加担することになってはしまったが、佐野氏は、ソーシャルの被害者だと思う。しかし、佐野氏の場合は、ソーシャルのルサンチマンを多いに刺激してしまったことが問題だ。

五輪エンブレムに対するゆるぎない否定とは裏腹に、スタッフサイドのトレース発覚から、展開例のパクリに至るまで、クリエイティブのプロセスそのものが、素人衆も含めてソーシャルからメディアにまで大否定されてしまった。

しかし、その背後にあるのは、誰も自分の責任としてバッシングしない、組織委員会も「東大話法」で誰も責任をとらないで、佐野氏だけを悪者にして、そしらぬ顔で一から出直すとお茶を濁している。

佐野氏は、例え出来レースであったとしても、コンテンストで選ばれたのだ。選んだ側にも当然責任があるはずだ。佐野氏は1人でその責任を負う必要はない。しかし、そこには誰もバッシングがない。なぜだろう?

冒頭に書いたように、「みんなの意見は、案外正しい」からだ。「集合知」という知恵は、烏合の衆のスキマ時間にものすごい探索能力を与えた。カオス理論で武装化されたアルカイダ同様にイジメのテロリストと化していく。異端はコテンパにバッシングされる。いやバッシングされるべきだと思われている。

我々はガス抜きとしても、常に誰かに石をなげつけたいのかもしれない。そして、これはまた、知らず知らず、自分もゾンビ化して噛み付き、噛み付かれた人間も噛み付き始めていく。こうやって、イジメのゾンビ構造はソーシャルだけではなく、ついにオリンピックそのものの商品価値をなくしはじめた。

■「ネット衆人環視社会」
エンブレムからサントリーのトートバッグに至るまで、佐野研二郎氏を取り巻くデザイン疑惑が絶えない。しかし、それを追求しているのが、マスメディアではなく、ネット上における無数の無名の人々だ。

そして、今回の東京オリンピックが呪われている原因は、それらが決定されるプロセスが社会に可視化されておらず、密室でおこなわれてきた経緯がある。今までは密室で一部の人だけに利益が供与されるのが当たり前であった。しかし、ソーシャルは唸りを上げて、公平公正でないものに噛み付きはじめているのだ。

このソーシャルメディア時代は、社会から承認を得るためには、すべてのプロセスを公開していかなければ納得されないという大衆側による、いわば逆規制監視型の「ネット衆人環視社会」となっているのだ。今までのマスメディア主導の世論形成とは全く事情が異なった。

日常のやりとりでは、絶対に主従の関係があり行動すら管理されている。しかし、匿名性の高いネットの世界では思いきり誰もがむとんちゃくに強くなれる。 そして残忍にもなれる。 法律に触れない限り基本的に言論は自由だ。 それは、「デスノートを持った夜神月(やがみ・ライト)」でもある。


■ソーシャルメディアは自分の「徳」を高めるメディア
このままソーシャルにおける「隣組」と「ソーシャルにおける公開処刑」が続くとどうなるのだろうか?互いに厳しく監視しつづけ、他人のツケこめるところがあれば、一気にハイエナやウジ虫のように群がる民ばかりになるのだ。それは、自分の自信のなさの裏返しだ。体制に寄り添い、自分の身を安全な場所へ確保し、世知辛い世界を生き残る。そのストレスや怒りを、叩いても文句を言わないメディア弱者へ向ける。

みんなでやることはすべて正しいからだ。しかし、この思想こそ、最も危険な思想だ。ソーシャルメディアは人を律するためのメディアではない。ソーシャルメディアは自分の「徳」を高めるためのメディアなのだ。他人を律するのではなく、自分の為に自分を律するのだ。自分の「徳」を高めようとすると、他者の為になり。

他者の「徳」を高める行動となる。セキュリティレイヤーは上げれば上げるほど、利用者にも苦労が伴う。むしろ、ごく一部の悪意のある人たちの行為を否定するのではなく、認めて上げることのほうが無駄は減るのかもしれない。

100%完全なセキュリティを目指すのではなく、多少問題があっても、なんとかなる社会のほうが強いと思う。互いが互いが監視しあうソーシャルな社会ほどつまらないものはない。もっとルーズで、もっと怠惰でありながらも、昭和のあの頃の爆発的なおおらかさが今の日本には一番必要だと思う。

神田敏晶
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ITジャーナリスト・ソーシャルメディアコンサルタント
神戸市生まれ。ワインの企画・調査・販売などのマーケティング業を経て、コンピュータ雑誌の編集とDTP普及に携わる。1995年よりビデオストリーミングによる個人放送局「KandaNewsNetwork」を運営開始。早稲田大学大学院、関西大学総合情報学部で非常勤講師を兼任後、ソーシャルメディア全般の事業計画立案、コンサルティング、教育、講演、執筆、政治、ライブストリーム、活動などをおこなう。

参照元 : yahooニュース


群集心理により引き起こされた10の事例

2013年08月29日

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我々は、自分には信念もモラルもあり、いかなる状況においても惑わされないと思いたがっている反面、ほとんどの人が、他人の行動に引きずられてしまう傾向にある。特に、個が確立されていない社会や、精神的に未成熟な子どもにはこの傾向が強いと言われている。

人は集団になると、いったいどうしてこんなに、意味不明で、暴力的で狂気な行動に走ってしまうのだろう。社会心理学者はこれを群集心理(集団心理)と呼ぶ。過剰な集団心理はいじめや差別を助長する要素のひとつであり、社会に重大なひずみをつくる。

ここでは群集心理が引き起こした10の事例を見ていくことにしよう。

10.山の草原での大虐殺

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1857年、モルモン教徒たちがカリフォルニアに向かう移民家族の馬車の列を見つけた。どういうわけか、彼らはこの通りすがりの者たちに脅威を感じ、攻撃しなくてはならない衝動にかられた。襲撃の責任を免れるために、原住民のパイユート族をうまいこと巻き込んでインディアンを装った。

移民たちは五日間防衛したが、水や食料も乏しくなっていたため、モルモン教徒が示した休戦協定を受け入れて投降した。ところがそのとたん、移民たちは皆殺しにされてしまった。最初、モルモン教徒たちは、この虐殺への関与を否定し、パイユート族に責任を押しつけていたが、後にモルモン教徒も襲撃に参加したことを認めた。しかし、ブリガム・ヤング(モルモン教徒指導者)の命令ではなく、自発的な行動だと主張。今日、モルモン教の教会は、この草原に記念碑を建てて、虐殺された犠牲者たちを悼んでいる。

9.バーニング・マン・フェスティバル

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暴力にはつながらない群集心理の例。このバーニング・マンという祭りは、1986年にサンフランシスコの浜辺での小規模なグループから始まり、今ではネヴァダ州ブラック・ロック砂漠で、一週間に渡って行われる五万人規模の大野外イベントに発展した。実験的な社会、共同体としての仮の都市、アート、自己表現、自立を表わしているという。

決まりごとは車を停める場所とか、トイレの使い方など、ほんのわずかしかない。すべてが自由だと、たいてい参加者の抑制のたががはずれていき、ひとりふたりと服を脱ぎ始め、しばらくすると集団全員が裸になる。考えてもみて欲しい。ほかの49999人が裸になって火の回りで踊っているのに、ひとりだけ服を着ていることができるだろうか? おそらく無理だろう。

8.フランス革命の恐怖政治

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社会の不正を正すためのギロチンという装置が、社会を逆上させて人々を狂気の渦に巻き込み、5万もの処刑が行われる結果を生み出した。次第に事態はエスカレートし、頭を切り落とすだけでは、血に飢えたこの革命を満足させることはできず、人々はあらゆる恐怖を解き放った。

公開での鞭打ち、銃殺、重りをつけて水に投げ込み、切り落とした首が通りに並べられた。犠牲者は貴族だけでなく、反革命分子の疑いをかけられた者は片っ端から標的になった。裁判が行われたとしても、たいていは見せかけだけだった。

1年ほどたって、人々はやっと革命の指導者が狂信的な殺人者に変わってしまったことに気づき、本当の意味での群集心理で、最後のひとりの首をはねてこの狂乱に片をつけたのだ。

7.スポーツイベント

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大きなスポーツイベントは、群集心理のいい例だろう。ほとんどのスポーツファンはひとりではそんなことはしないが、いったん集団になると群集意識が芽生えて、まわりのみんなと同じ行動をする。これにアルコールが入ると、なにかが起こる。

試合の後にピッチになだれ込んだり、ゴールを倒したりするのは日常茶飯事だが、興奮して制御のきかなくなった観客によってさらにひどいことも起こる。2011年のカナダでのアイスホッケーのスタンリーカップ選手権のとき、バンクーバー・キャナックスが、ボストン・ブルーインズに負けた。失望したファンが、車をひっくり返したり、火をつけたり、警察にゴミを投げたり、店舗のガラスを割って、商品を略奪したりしてバンクーバーの町で大暴れした。

最近では、エジプトでスタジアムの大暴動を扇動したとして、21名のサッカーファンに死刑が宣告された。この暴動は死者74名、負傷者1000名を出し、犠牲者の多くは踏みつけられたり、スタジアムの上から落ちたりして死んだ。残念なことに、この判決によって、また30人が死亡、400人以上が怪我をする別の暴動が起こった。

6.ジップ・トゥー・ザップ

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1969年5月、ジップ・トゥー・ザップの春休みの祭典は、学生たちによって暴動へと変わった。事の発端はノースダコタ州立大学の学生だったチャック・ストループが、フロリダのフォートローダデールでの春の祭りに参加することができず、代わりにノースダコタの小さな町ザップでイベントを開こうとしたことだ。

全国の学生新聞や町が発行した広告などによって、このニュースはたちまち広まり、浮かれ騒ぎに飢えていた学生たち3000人近くが、人口250人のザップの町になだれこんだ。主催者や町はまさか広告のうたい文句が、本当にこんな乱痴気騒ぎになるとは思わなかっただろう。当然のことながら、酒が足りなくなり、町の居酒屋の主人は値段を倍にして酒の消費を抑えようとした。ところがこれが酔っ払い集団を怒らせるはめになり、ついに酒が切れると彼らは町を破壊し始めた。結果的に暴動を鎮圧するために初めて州兵が出動するという事態となった。

5.ホロコースト

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ナチスドイツの時代を振り返ってみても、ごく普通の人間がいかに残酷で非人間的なことができるようになるかを完全に理解するのは難しい。たとえ、平均的なドイツ市民は強制収容所の中で何が起こっていたか知らなかったとしても、収容所にはSSの特殊部隊、24000人の親衛隊髑髏部隊がいた。

彼らは間違いなく何が起こっていたかを知っていたはずだ。極端な反ユダヤ主義で、憎悪を抱いていたとしても、普通の人たちが大量殺人に走る十分な動機にはならない。ところが、同じ意見の個人同士が集団になると、そこに群集心理が働く。

この24000人おそらくそれ以上の人たちは、自分を見失い、殺人マシンと化してしまったのだ。ニュルンベルグ裁判の間、元ナチの将校たちは自分たちは命令に従っただけだと、残虐行為への関与の正当性を主張した。

4.セイラム魔女裁判

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1692年のセイラム魔女裁判も、群集心理のいい例としてよく引き合いに出される。過激な宗教心と集団心理がミックスすると、なにかが起こる典型的な事件だ。この事件はあまりに強烈で、あれから320年たった現代でも、“魔女狩り”という言葉はむやみに少数派を迫害する行為をさして使われる。

何人かの少女たちが、発作を起こして卒倒したり、家具の下に潜り込んだり、痛みに体をひきつらせたりといった奇妙な症状を見せ始め、これは魔女のしわざだと主張するようになった。彼女たちはセーレムに住むある特定の女性たちを名指しし、医者が少女たちはとりつかれていると断言しため、すでに魔女恐怖症に陥っていた町はパニックになった。お上も市民も一体となって、魔女征伐を楽しむかのように、いいかげんな証拠をでっちあげて疑わしいと思われる人間を片っ端から逮捕し始めた。

もっとも奇怪なのは、彼らが容疑者の有罪を決めるためにとった無意味な方法だ。誰かに罪をきせたいなら、その人間の体や家にあるものをとりあげて、なんでもそれを魔女のものだと言いくるめればいい。体にほくろやあざがあれば、それは魔女の乳首、家の中に軟膏のビンがあれば、それも魔女の秘密の商売道具だと言えば、その人間はもう魔女だと決定だ。こうして150人を監禁し、25人を殺した。19人は絞首刑で、ひとりの男性は罪を認めなかったので、巨大な石で圧死させられた。5人は監禁されたまま死んだという。

3.第二次赤の恐怖

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1947年から1957年の間に起きた、2回目の赤の恐怖は現代版魔女狩りだ。今度は共産主義者を執拗に追い詰めた。ジョゼフ・マッカーシー上院議員らの偏執的な共産主義排斥思想のせいで、アメリカ人は共産主義者が政府や社会のあちこちに隠れていると信じ込んだ。おかしなことに、政府の一部の人間があまりに恐怖を煽ったのに、市民のほとんどはそんな政府の行動をおかしいともは思わなかった。

リベラル指向のある人が、マッカーシーの非米活動委員会や常設調査委員会にとりたてられ、合衆国憲法修正第4条(不法な捜査や差し押さえの禁止)を無効にすることを決めた。その結果、正当な理由や令状なしで疑わしい者の家に押し入り、私信を盗み見たり、オフィスや電話に盗聴器を仕掛けたりした。こうした行為に対して、国民も大統領も最高裁も傍観したのだ。

2.株式市場の暴落

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株価というものは、需要と供給をベースに上がったり下がったりするものだが、それは疑いと恐怖という感情にも当てはまる。つまり、人々が経済が安定していると感じれば株価は上がるし、経済が低迷しているという噂を聞くと株価は下がる。本質的に自己達成的な予言なのだ。

サウスメソジスト大学のマーケティング学教授のであるダニエル・ハワードは、株式市場が急騰したり、暴落したりするのは、群集心理のせいだという。私たち自身が自ら天国を作ったり、地獄を作ったりしているとは恐ろしいことだ。

事態をよけいに悪くしているのは、いつ買って投資すれば安全なのか、群集がいつも専門家からの合図を待っていることだ。しかし、群集が利益を得られる頃には、すでに金持ちに先を越されている。その他大勢はいつまでたっても弱い立場に留まり、常にトップにたどり着こうとして、他人の判断を鈍らせるようなムードを作り出している。

1.インターネット

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インターネットは群集心理を育む土壌である。オンラインでユーザーが見知らぬ大勢の他人と気軽に狂気を共有できるだけでなく、匿名の名のもとにいとも簡単に身元を隠すこともにできる。匿名性によって、社会的な縛りを解き放つ自由が得られるのだ。

インターネットのフォーラムで漂流するバーチャルなギャングたちが、賛同者と一緒になって一斉に他人を攻撃する。それは性差別、人種差別、同性愛嫌悪につながり、現実の世界では決して口にしないようないじめや脅しの言葉を吐く。もちろん、こうしたサイバーいじめのせいで、相手を自殺に追いやるような現実的な結果を招くこともある。

自由な発言を制限し、ネット上の不必要な検閲を生み出す脅威を与える、SOPA(オンライン海賊行為防止法案)などの規制法案が出されたときは、ネットの群集心理が功を奏するプラス面もある。グーグルからブロガーまであらゆる人が報道管制下におかれることに対して、極端な時代の逆行は許しがたいことだと、圧倒的多数である群集の力で国会議員に示すことができるという点だ。

via:Top 10 Instances Of Mob Mentality 原文翻訳:konohazuku

戦後の保守系マスメディアで活動した山本七平は、著書「空気の研究」の中で、集団心理を育む土壌はその場の「空気」だと述べる。「空気」は「水を差せ」ば抜けるが、水を差した者はその場にふさわしくない者として追い出される。

参照元 : カラパイア 不思議と謎の大冒険




人は集団で行動すると道徳観が薄れ、倫理的思考ができなくなることが脳のMRIスキャンで明らかに(米研究)

2014年06月21日

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社会心理学では、人は集団となると思考停止状態に陥り、自分の考えや行動などを深くかえりみることなく無意識のうちにいじめや暴力に加担してしまうことがあり、これを集団心理と呼んでいる。

今回、米マサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学バークレー校、カーネギーメロン大学の合同研究チームが脳のMRIスキャンによりこれを裏付ける脳の働きを発見した。

それによると、人間は集団の一員として行動している時、脳の「倫理」と「内省」に関係する領域の活動が弱まることがわかったという。

実験は、学生の被験者23名を対象に行われた。画面に出たメッセージに従って素早く反応し、勝つとお金が手に入るというゲームを行ってもらうのだが、このゲームは、別の被験者と個人同士で、または、被験者グループとグループ対戦の2通りの方法で行なわれると説明されていた。

メッセージの内容は、あらかじめ各々の被験者を調査し、それに基づいたものが使用された。その内容は、「Facebookに600人以上の友人がいる」などのソーシャルメディアに関するものと、「皆で共有している冷蔵庫から食べ物を盗んだことがある」などの道徳的な問題に関するものが含まれていた。

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被験者がゲームをしている間、研究チームは被験者の内省や倫理判断と関係している、脳の内側前頭前皮質をモニターした。

その結果、被験者たちがグループ対戦と告げられた時は、個人で戦っていると告げられた時に比べて、道徳にかかわるメッセージが表示されたときの内側前頭前皮質の活動が著しく低下していたことがわかった。

また、ゲーム終了後、対戦相手の顔写真を被験者に選ばせたところ、内側前頭前皮質の活動が低下した被験者は、チームメイトに比べて写りのよくない対戦相手の顔写真を選ぶ傾向を示した。

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さらに今回の研究では興味深い結果も得られた。すべての被験者が同じような反応を示したわけではなかったのだ。グループで競争することに強く影響を受けた者もいれば、あまり影響を受けなかった者もいた。

集団に入ることで、簡単に自分を見失いやすい人と、まわりに流されない人がいると考えられるが、その理由はまだ明らかになっていない。個人の確立されたゆるぎない倫理観が関与しているのかもしれないが、その解明は今後の研究課題である。

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「少なくとも集団は、匿名性を生み出し、個人の責任を縮小させ、”大義のためには必要である”という考えで、危険行為に及ぶ。だが今回の研究だけでは加速する集団同士の争いをすべて説明することはできない。」 この研究を率いたミーナ・シカラ氏は語る。

「集団に身を置いた場合、一度立ち止まって考え、これまでの自分の道徳観念と照らし合わせて、その行動が果たして倫理的であるのかどうかを省みることが、集団心理の影響を弱めるのに役立つ可能性はあるだろう。」シカラ氏はそうつづけた。

via:ibtimes・原文翻訳:LK

アメリカで行われた記憶に関する心理学実験では、被験者は”わざ”と嘘の答えを言うサクラの多数派に同調してしまう傾向が見られたという。

たとえ自分の利益にまったく関係がないことでも、自らの記憶自体が多数派に同調して書き換わってしまい、多数派の主張する嘘の事実を本気で信じてしまう現象が起きることがあるそうだ。

参照元 : カラパイア 不思議と謎の大冒険