“雅子妃の代弁者”といわれる皇室ジャーナリストが明かした「皇太子妃を辞める」発言と不妊治療の真実

2015.12.09

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今日12月9日、雅子妃が52歳の誕生日を迎えた。予想通り会見はなく、宮内庁を通じて文書で談話を発表する形式で、内容も戦後70年ということで、「戦争の悲惨さと平和の尊さに改めて思いを深くいたしました」という言葉が入っていたものの、あとは昨年と大きく変わりはなかった。

雅子妃の肉声を聞くことがなくなっていったいどれくらいになるのだろうか。この十数年、我々が接することのできたのは、宮内庁を通じて出される当たり障りのない談話や動静情報のみ。一方で、週刊誌では雅子妃に対する大量のバッシング情報が流されてきたが、それについて、雅子妃の反応はまったくわからないままだった。

だが、そんななかで1年ほど前、雅子妃の思いや心の裡を代弁しているといわれる本が出版されたのをご存知だろうか。雅子妃の半生を綴ったノンフィクション『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(文藝春秋)がそれだ。

同書の著者・友納尚子は「週刊文春」「文芸春秋」などで皇室取材に取り組んでいたジャーナリストだが、2003年、雅子妃が入院した直後から、一貫して雅子妃サイドにたった詳細な内幕記事を書いてきた。ほとんどのメディアが雅子妃の休養を「仮病」扱いしていた時期から、ストレスによる「精神的な病」であることを指摘。公務や宮中祭祀の欠席問題、さらには愛子内親王の不登校や付き添い登校をめぐるバッシングが起きた際も、雅子妃サイドの言い分を代弁するように詳細な反論を書いてきた。

そのスタンスはともかく、情報はきわめて正確で、東宮職はもちろん、雅子妃の実家である小和田家関係者や雅子妃本人にもパイプがあるのではないかと指摘されるほどだった。

その友納氏がこれまでの取材の集大成として出版したのが前掲書『ザ・プリンセス』なのだが、そこには、これまで表には出なかったエピソード、そして雅子妃を「適応障害」にまで追い詰めた原因が綴られている。

それはやはり、宮内庁や千代田(天皇夫妻の側近の俗称)との確執だった。同書はまず、ある事件が雅子妃の心を深く傷つけたと書いている。

2000年の皇太后逝去でのこと。この時、雅子妃は葬儀を欠席しているのだが、その背景に〈雅子妃にとって、適応障害というご病気に繋がる過去の暗い記憶となっているある出来事があった〉と同書はいう。

〈それは、この前後に、千代田側から厳しく叱責されたことだった。(中略)「しきたりに関するやりとりならば納得がいくのですが、その時のご気分による感情的な叱責があったといいます」(宮内庁関係者)〉

友納氏は間接的な表現をしているが、これは前後の文脈から見て、「雅子妃が皇后から理不尽で感情的な叱責を受けた」と読みとれるものだ。当時から、皇后との確執が雅子妃の病気の最大の原因と言われていたが、やはりそれは大きかったようだ。

さらに、雅子妃を追い詰めたのが、お世継ぎのプレッシャーだった。宮内庁はなかなか懐妊しない雅子妃をことあるごとに責め立てたという。

〈ご懐妊されない原因が雅子妃の『考え方』にあると見るようになったのである。雅子妃が世継ぎの重要性を自覚していないという歪んだ話は、宮内庁の中にも広がり始めていた。〉

97年2月には当時の宮内庁長官・鎌倉節が直接、雅子妃を説得にきたこともあったという。通常、長官といえど、皇太子夫妻から「お召し」がなければ勝手に会いに来ることなどできないのだが、鎌倉長官はその禁を破り、強引に乗り込んできた。そして部屋に入るなり、世継ぎの話を切り出したという。

「前置きもなく、いきなりお身体のことを話し始めたといいます。雅子妃殿下は羞恥心と驚きで複雑なお気持ちになったそうです。ひとりの女性が夫婦間のことなどを他人に軽々しく言えるはずがありません。雅子妃はしばらく黙ったままだったそうですが、あまりに理解がないためプライバシーについて言われたところ、結局、聞き入れてもらえないまま話は平行線に終わったと言われていました」(元東宮職)

その後、雅子妃は流産をへて、愛子内親王を出産するのだが、男児ではなかったことで、このお世継ぎプレッシャーは止むことがなかった。

宮内庁内部では、出産直後から第二子の期待が高まり、当時の湯浅利夫宮内庁長官も会見で「やはりもう一人はほしい」と発言。雅子妃の意向に反して早期の公務復帰を決めた。しかし、愛子内親王の子育てに時間をさきたい雅子妃はこれに強い不満をもっており、林田英樹東宮大夫とこんな驚くべきやりとりをしていたことを同書は明かしている。

〈雅子妃はそれまでも、過密な公務の日程について、何度も林田東宮大夫に訴えてきたという。だが、聞き入れてもらえないことから、〇二年頃に「これでは皇太子を辞めなくてはなりませんね」と語ったことがあったそうだ。言葉だけを取りだせば衝撃的だが、信頼できるはずの大夫に、内々に、なかなか聞き入れてもらえない公務委の軽減を訴えている文脈の中での発言だったのが実際だった。〉

そして、2003年10月15日、決定的な事件が起きる。メキシコのフォックス大統領夫妻を迎えての宮中晩餐会でのこと。この晩餐会では主催の両殿下から皇族方が順番に紹介されるのが儀礼となっていた。しかし──。

「まず燕尾服姿の皇太子を紹介されて、次はイブニングドレス姿の雅子妃の番でした。フォックス大統領が雅子妃に向って手を差し出されたのですが、隣の秋篠宮殿下が紹介されたため、一瞬、大統領の手が宙で迷われ、おかしな雰囲気でした。雅子妃は明らかに引きつったようなご表情でした」(元東宮職)

そう、雅子妃は妃殿下として紹介されず、スルーされてしまったというのだ。このことが雅子妃から自信を喪失させ、その後11年間、雅子妃は宮中晩餐会に出席することはなかったという。

同書は東宮御所に戻った雅子妃の心境を「宮内庁関係者」のコメントという形で、次のように解説している。

「ご誕生されたお子さま女の子だったことから、男子を産めない皇太子妃は必要ないというように思われたようです。(中略)雅子妃殿下は皇統の重要性を考えると、もっと頑張らなくてはいけないと思われていた。けれども深い失意は、ご自分を責める方向に向かわせたと言われています」

そして、この直後から雅子妃は体調に変調をきたしはじめ、03年12月、帯状疱疹で入院。休養が発表される。そして04年の適応障害、皇太子の「人格否定発言」に繋がっていったと著者は分析している。

もちろん、本書に対しては「雅子妃に寄り添いすぎている」といった批判もある。実際、同書に描かれた雅子妃の思いは被害妄想と感じられる部分もなくはないし、皇太子妃として公への貢献の意識があまり感じられないのも事実だ。

しかし、同書は、雅子妃の立場に徹底的に寄り添ったからこそ、どのメディアも書くことのできなかった“本音”“肉声”に近い言葉を引き出せたとも言える。これこそが、外務官僚から突然、皇太子妃という立場になった女性からみた皇室の「真実」なのだろう。

そういえば、同書ではもうひとつ、これまでどこも書くことのできなかった「真実」が明かされている。それは、ずっと噂になってきた皇太子夫妻の不妊治療の問題だ。

同書は1998年の秋から皇太子夫妻が不妊治療を受け始めたとはっきり書き、それにそこにいたるまでの経緯について、こう記している。

〈ご懐妊には大きな問題があることに雅子妃は気づいていたが、誰にもたやすく相談できないことでもあった。〉
〈(懐妊しない)そこには深刻な問題があった。しかしそのことを鎌倉長官はじめ宮内庁は把握できていなかった。〉

〈一般的に子どもができないと原因は妻にあると思われがちですが、宮内庁も同じような考え方だったのです〉

さらに、不妊検査が行われた際の雅子妃の気持ちは、意外にも辛いものではなかったとして、元宮内庁関係者のこんなコメントを紹介している。

「これまでお子さまが生まれないのは雅子妃のお身体のせいだといわれてきたことから、この検査結果が出たことで『やっと周囲にわかってもらえる』と安心したお気持ちの方が強かったといわれています」

いずれにしても、雅子妃に起きたことは、雅子妃の個人的な資質の問題ではない。雅子妃の世代の民間の女性が突然、皇太子妃という立場になって、周囲からプレッシャーを受ければ、ささいなことに敏感に反応し、自信を喪失し、自分の身を守ることでいっぱいいっぱいになってしまうのは、ある意味、当然とも言える。

同書も指摘しているが、皇室のあり方そのものを考え直さなければ、次に、民間から妃が入った時も恐らく同じことが起きるだろう。とくに、天皇制墨守を掲げる保守メディアや識者は雅子妃バッシングを繰り返すよりも、そのことをもっと真剣に考えるべきではないだろうか。

(伊勢崎馨)

参照元 : LITERA


雅子妃と小和田家の闇

2011.05.20 Fri 00:00

雅子妃のルーツ

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1993年7月8日 東京サミット晩餐会にて、「ロシア語が堪能」との触れ込みによりエリツィン大統領の隣席に座らされたものの、話が弾むクリントン大統領と紀子妃をなぜか凝視する雅子妃。

参考サイト

小和田雅子さん(皇太子妃)の出自について

出自は本人の意思や責任とは関係ない。皇太子妃としての責務を果たし、その人柄が国民から敬愛され、すばらしい人…すばらしくなくても普通に真面目に生きている人であれば、今更血筋がどうのなどとは言われなかったのかもしれない。

今の世で出自云々を問うこと自体、おかしいのかもしれない。実際、言ってはいけないこととされている。だが、ろくに公務も祭祀もせず、自分勝手な振る舞いをしていれば、やっぱりお育ちが…と言われるのも仕方がない。

しかも、一部では雅子さんの後ろ暗い部分を紀子様にすり替えて噂を流し貶めている。きちんとした家系図が存在する紀子様の出自に関する嘘の噂を嬉々として流している。

医学博士のH・S氏は公の場でこう言った「おい、同和が親王を生んだぞ!」H氏はワールドメイトという団体に在籍している。ワールドメイトは創価学会とともに雅子さんを擁護し、それ以外の皇族方を誹謗中傷している。最終的には皇室の消滅→新しい世(教祖の自分が王となる)を目論んでいるのだろう。

内側から次々と皇室を破壊してくれる雅子さんは皇室を否定する人々にとって重宝な存在だと思われる。紀子様の名誉を守るためにも、皇室のためにも、日本のためにも雅子さんの出自をはっきりとさせるべきだと思う。「富田メモ」で、「真偽を確認する為に全文公開せよ」との声に「皇太子妃の入室について書かれている部分があるから公開出来ない」という回答

反対の理由は、チッソ(雅子さん祖父)、男性関係の他に血筋も関係しているのでは、と言われている当時のお妃候補の中で家系図の無い家は小和田家のみ。宮内庁は皇太子の結婚にあたって小和田家の家系を公表し興信所に身元調査を依頼した。そのとき、部落開放同盟は差別であるという申し入れを行っていた(ニュースにもなった)そのため、身元調査は打ち切りになった。

わざわざ部落開放同盟が抗議。

▼雅子妃の家系調査への抗議を認めた団体のサイト

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▼雅子妃の家系調査への抗議を認めた記事

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『部落解放』1993年6月号「皇太子妃決定に関わる身元調査等の差別助長行為にたいする抗議と申し入れ」の記事(クリックで拡大)

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小和田家

一代目 小和田金吉(生年月日、生地、両親不詳)

二代目 小和田毅夫

三代目 小和田恒

金吉の前は不明

金吉の父は道蔵匡利のはずだが、雅子さんの曽祖父金吉が道蔵匡利とはつながらない。宮内庁が公表した家系図は、金吉で終わっていて匡利の名前はない。この事実だけで、金吉は匡利の子供とは断定できない。あるいは金吉の両親(もしくは父)は不明か、表に出せないということがわかる。

地方では割合先祖のことを調べることは容易である。新潟で3代前までしかわからないということは非常に不自然。雅子さんの皇室入りが決まったとき3代前の小和田金吉の父親がわからなくて宮内庁が困り、小和田家が無理矢理でっちあげた家系図の元になったのが同じ地域出身の小和田本家の家系図。

小和田本家では雅子さんの曽祖父金吉のことを「知らない」と言っている。匡利の次男に、確かに金吉(A)なる人物はいる。その本物の金吉(A)と、雅子の曽祖父の金吉(B)が同一人物なのかは不明。

お妃内定のときも結婚の時も本家筋の方は誰一人出てこなかった。本籍地の村上市から新潟へお墓を移すときも金吉しか動かしていない。村上市ですら、よくわからないと言っている。「小和田新六から曽祖父金吉までは不明の点が多く、調査が待たれる」

村上市の西真寺と新潟市の泉性寺の言うことにも食い違いがある

1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺)

「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」

「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」

昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たがここに墓参していない

2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言

「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない 匡利(道蔵)の墓だけがあります…30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」

泉性寺の檀家談

お墓は奥の方に非常にみすぼらしいのが建っていました。それが、皇太子のところに嫁ぐのが決まったら、場所もいいところに移動して、大変立派なのが俄かに 建てられました。

3 ご成婚前の小和田家の墓参り

両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり「小和田家の墓」ではない(昭和55年(1980)に小和田毅夫(恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果異様なツギハギの墓)

4 金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫の幼い頃別居し金吉死亡後、竹野のお墓は所在不明

5 専門家の意見

「一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」金吉が匡利の子なら匡利12〜13歳の時に生まれた三男となり有り得ない 一言でいえば「この小和田家ではない」と言っている

6 新潟県村上市小和田本家の証言

TVでのインタビューにて老当主が「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」と答えた

以上より

・ 「金吉の墓」または「小和田家の墓」の所在地が不明なのはなぜ?(再婚してない場合毅夫母の竹野の墓の所在も不明)

・ 毅夫は西真寺から泉性寺に父金吉の墓を移すと寺に言いながら泉性寺にお墓を作っていないのはなぜ?

・ 泉性寺の小和田家の墓が「金吉の墓」又は「小和田家の墓」ではなく「匡利(道蔵)の墓」なのはなぜ?

・ 仮に金吉が小和田兵五郎の三男なら西真寺に兵五郎の墓を残したままで恒、毅夫が当地に来ても墓参りしないのはなぜ?

・ 毅夫氏自身はどの小和田のお墓に入ったのだろうか?

江戸時代、犯罪者予備軍の無宿者は新潟の佐渡ヶ島の金山に送り人足として使役、明治維新で解放されたこの人らの戸籍や墓は?(ご先祖流れ者説)

戸籍を誰かから入手した?戸籍売買?(ご先祖は日本人ではない説)

金吉は認知されていない子だった?(私生児説)→母方から先祖はたどれるはず

同じ姓の墓をどこからか入手した?(捨て墓置き場から…説)(墓が個人名でツギハギな点と欠けている点がポイント)

先祖の墓参りをしない家なら先祖を敬うしつけや教育を受けていないので祭祀を無意味としか思えない雅子妃の態度にも合点がいく

▼小和田金吉

・人物像は不明、名前の読みも不明(きんきち?かねきち?かねよし?すら不明)

・どの読みでも「下級武士」の出とは考えられない。(小和田家主張=武士)

・墓がない(それほど昔の人ではない。恒氏の祖父である)曽祖父の墓はあるのに?

▼つぎはぎの墓

墓石つぎはぎの理由→昭和55年(1980)に小和田毅夫氏(=小和田恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調

墓石には「小和田匡利墓」とある(個人名)→小和田家、ではない。

墓石側面には「明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓」

小和田匡利 → 新潟県村上市の小和田本家「分からない」回答

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金吉の墓はどこの寺にあるのかわかっていない。村上市の西真寺には小和田金吉の墓はない。

移したはずの泉性寺にも小和田金吉の墓はない。あるのは匡利の墓のみ

皇室入りのため、急遽作られた家系図によると金吉は道蔵の次男(1867頃出生)

そうなると道蔵が14歳のときの子ということになる。しかも三男。14歳でもう2人(以上)の子??

明治時代に生きていた金吉以前の戸籍が存在しないというのは不可解。

私生児もしくは捨子とも考えられるが戸籍が存在しない出自とも考えられる。

部落民と言う話もあるし、犯罪者、あるいは半島から新潟へ流れ着いて戸籍を買った、または奪ってなりすましたという話も出てくる。

(成りすまし…元々戸籍を持たない人が、小和田家の金吉と言う人になりすましたということ)

だから現実として年齢が合わないなどのボロが出る。

後継ぎが居なかった小和田金吉の家系を利用してなりすます、このやり方で日本人になりすます朝鮮人は大勢居る。小和田金吉は村上の小和田家とはなんの関係もない。村上の士族小和田家が村上をはなれて戊辰戦争に負けてちりぢりになったのは明治の初年。士族小和田家は明治初年以前も調べがつく

問題は小和田金吉が1867〜1868年頃朝鮮で生れ、新潟に密航して住み着いたのは明治以後。

だから宮内庁は小和田家が1868年以前は何をやっていた人なのかわからないといったのは事実隠蔽のためで本当に士族なら村上を調べたらわかるのである。佐藤朝泰の「閨閥」という本に小和田金吉の代からしか載っていない。(川嶋家は高祖父の代までのっている)

朝鮮から密航してきたX=金吉。明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に金吉氏の名前が初出となる。もちろんこの金吉は小和田道蔵の息子で雅子の曽祖父の金吉とは別人。

X=金吉は新潟の吏員になるために(戸籍のない密航者だから)村上士族小和田匡利の息子金吉から家系図を購入し、士族に成りすまして朝鮮参加の男が小和田金吉に成りすました。その証拠に小和田家の世代の年齢があわない

婚約時代の墓前報告の写真によると、にわか作りの墓石の土台の上に苔むした古くて小さな墓石がちょこんと乗っかっている。先祖の供養もしていないことがありありとわかる写真だった。

母方江頭

江頭という苗字だけでピンとくる人はいるかもしれない。

エガシラ → エタガシラ ※全ての江頭さんがそうだというわけではない。

江頭家は村上水軍につながる(と成婚時に発表)ので、さらに部落民に遡る可能性は高い

以前、雅子さんの母優美子さんのいとこで作家の江藤淳(本名江頭淳夫)が自分のルーツ探しに九州へ行った。

そこで知った現実に相当のショックを受けたという。

そこそこの家なら、わざわざルーツを探さなくても先祖のことなら代々受け継がれて聞いているはず。なおタレントの江頭2:50も親戚(2:50の方が本家筋)

優美子さん父は豊(チッソ)、豊の父は安太郎。この安太郎が母親から青山の墓地に埋葬しています。

それ以前の墓地は不明とあります。(結婚記念誌に記載)

江頭家の出身は九州ですが、不思議に父親のお骨は東京へは引き取っていないのです。

彼は九州の自分の出自を恥じてひた隠しにしていた。また安太郎の妻米子が古賀家から嫁いで居ますが、この古賀家も佐賀の阿弥陀寺にながい間無縁仏として放置されていた。

近年になってそれらの無縁仏を一箇所に集めて合祀されている。雅子さん祖父・嘉蔵は明治維新までは鍋島家の家臣だったとされるが明治初年の佐賀藩侍着到(出勤簿)にその名はない。

番太部落出身で「いわれなき差別を受け」、小学校の小使いの職にしか就けなかった江頭嘉蔵。息子の安太郎は、その出自を生涯ひた隠しに隠し、佐賀には一度も帰ることはなかった。

江藤淳は今上陛下を雑誌で批判(1999年7月21日自殺)

「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない…」

その叔父も自殺。遠縁の江頭2:50も精神を一時患った。

正田家は数百年遡れる名家、公家の血筋も入っている。

川嶋家も会津藩士(藩士録にちゃんと載ってる家)&紀州の名士

小和田は不明

海外誌

日本では今日、江戸の最下層民と皇室が縁組をするという異常事態、しかもその最下層令嬢が、実家の親とつるんで皇室を我が物にしようとする異常事態。

許しがたいのは、その下賤な血のなせる業か、マスコミを使って皇室を攻撃する。国民を騙す。

1993年街道の集会で沖浦和光が「小和田雅子さんの先祖は部落民」だと発言。その後、なぜか川嶋家同和説が広まった(何者かによって意図的に広められた)川嶋辰彦氏は同和問題の研究もしていたので、いかにも信憑性をもって悪意のある噂が広められた。

そもそもは家柄ではなく、雅子さん本人と実家の行状が問題。雅子さんの先祖がたとえ部落出身でも、3代前から不明でも、公害企業の社長でも、父親が機密費横領でも雅子さん本人がきちんとしていれば、両親、先祖のことであれこれ言われることはなかったはず。

生まれが卑しい…という言い方をするべきではないが他の皇族方の出自を捏造して貶めるのだから(このやり方、どこかの国に似ている)事実をはっきりさせたくなる。

家系を乗っ取るということをなんとも思わない一族。だから皇統も乗っ取ろうとした。女系、雑系にして、小和田墓のように、ツギハギにしようとした。恐ろしい。

どんなに卑しい素性でも、とりあえず皇太子妃として入内を許されたのだから、身内も身を慎み、本人も謙虚な気持ちでまわりに教えを請うていればここまでいろいろ暴かれることもなかった。あの一族全員がやることなすこと下品。

出自なんて、本人の努力でなんら関係ないという見方もあるが、出自が悪いと育ちも悪いというのは否定できない。

権力と権威を異常に渇望する雅子妃の実父、小和田恒

安達峰一郎記念館に残された異様な石碑


安達峰一郎はあまり一般には知られていないが、明治から昭和にかけて法学や外交の分野で活躍した戦前の偉人である。ハーグ対独賠償会議の際の日本代表を努めたが、この会議でフランスとイギリスが激しく対立したとき、調停の依頼を受けた安達は、日本流の茶会を開いて両国代表を招き和解させ会議を成功に導いた逸話がある。アジア系として初の常設国際司法裁判所の裁判官、所長を努めた。生家のある山形県東村山郡山辺町には記念館が建てられている。

▼当時の風情を今に伝える山辺町の安達峰一郎記念館

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安達峰一郎記念館の前に立つ、実物大の小和田恒の手形をかたどった小和田恒の来町記念碑。歴代の首相でもこんな碑を立てた人間はいない。小和田氏は現在、国際司法裁判所の所長を務めているので、安達博士に関係ないとは言えないが、もはや気分は天皇といったところだろうか?

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▼雅子妃の実父、小和田恒氏の専用の椅子

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上の画像は、某ブログに掲載された、現在、小和田恒氏が使用している国際司法裁判所の所長の椅子だが、その背もたれに菊の御紋(十六八重表菊)らしき紋章が使用されている。国際司法裁判所の判事の椅子には判事の出身国の国章がつけられているが、こういう場合に用いられる日本の国章は、通例上、首相や政府が主に使っている五七桐花紋が用いられるのが一般的。

▼五七桐花紋

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雅子妃の異常性

衣装ストーカーで嫌がらせを繰り返す

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▼犬の足で国民にお手振り

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国民にアッカンベー

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皇統乗っ取りの野望

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反日マスコミの援護射撃

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結婚パレードで振られる反日朝鮮勢力のシンボル、三色旗

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ハワイの朝鮮戦争博物館になぜか存在する雅子妃と愛子内親王の像

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Webサイト上で紹介されていた際の画像のファイル名は“KoreanPrincessBaby.jpg”となっていた。

▼東宮所蔵と思われる皇室の宝物がヤフーオークションに流出

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詳細は下記URLを参照

皇室ゆかりの品ヤフオク大量流出事件の真相はどこに

参考動画(ニコニコ動画)











参考記事

徳仁皇太子夫妻の結婚パレードで振られる創価学会三色旗の怪

反日勢力・反日マスコミの最終目標は万世一系の皇統の断絶

万世一系の断絶を目論む小林よしのりと沈みゆくSAPIO(サピオ)

天皇家と日本の復活
愛子内親王ご優秀伝説の破綻 知られざる高円宮家の真実

(コメント)
今回紹介した記事は、雅子妃の実家のルーツに関しては、恐らく決定版に近いのではないかと思う。雅子妃が皇室内で模範的な行動を保ち、国民や国のために尽くしていたなら、こういう記事は公開しなかっただろう。また、創価学会や統一教会のような雅子妃を支援する反日朝鮮勢力が、秋篠宮家の方々を侮辱する悪質な捏造でっち上げを流布しなければ、こういう記事を書く気は起きなかったかもしれない。

反日朝鮮勢力と連動して、秋篠宮家を誹謗中傷するワールドメイトは神道系の新興宗教で、高円宮家と接点があり、2002年に夭折した高円宮憲仁親王は、皇室内部から雅子妃入内を手引きしたことで知られている。高円宮久子妃は雅子妃の実母とは旧知の間柄。

ワールドメイトの教祖はメールマガジンなどで、過去に雅子妃や愛子内親王を気持ち悪いくらいに褒めちぎっている。御神業と称して、全国各地で祝詞を唱えたりしているのはワールドメイトの信者が多いと言われているが、馬鹿がどこで何を唱えても何の効果もないので、神道系という理由だけで騙されたりしないようにしていただきたいと思う。

前回の記事「愛子内親王のご優秀伝説の破綻」で、コメント欄に祖父が生きていたら、不敬罪だと言って怒っただろうという旨の書き込みがあったが、本当にその祖父が実在していて今も生存していたなら、今回の記事を読んで泡を吹いて卒倒しているかもしれない。

マスコミが反日朝鮮勢力の支配下にあり、ブログで書かなければどこも書くところがないような状況だが、保守系の政治ブログで東宮批判を行うブログは残念ながら非常に少ない。菊のタブーに遠慮しているのかもしれないが、反日朝鮮勢力の手先である雅子妃が入内した以上、菊のタブーを気にしてやりたい放題やらせていたら、皇室そのものが滅んでしまうだろう。

佳子様ご懐妊発表の翌日に、涙目で公務に出てきた雅子妃の写真から、「雅子さま、おかわいそう」というトンでもないマスコミ報道が始まり、雅子妃と反日マスコミのコラボによる秋篠宮家バッシングが始まった。

悠仁親王殿下のご誕生までの10年以上、それまで順調にご懐妊していた秋篠宮家の懐妊がピタリと止まり、徳仁皇太子夫妻がわが世の春を謳歌することになった。万世一系の皇統の危機というのは、人為的に引き起こされたものであり、雅子妃が皇太子妃でなければ、こういった事態は起こらなかった可能性が強い。

内心はどうあれ、表面的にさえ皇室全体の慶事を祝うことも、義妹の懐妊を祝うことも出来ず、皇統の危機も秋篠宮家に跡取りが必要なことも理解しない馬鹿女を形容する言葉を自分は知らない。一般庶民の家庭でも、弟夫婦のおめでたを台無しにするようなキチガイ嫁は御免蒙りたいだろう。

少なくとも、夫婦仲が良く、健康だった秋篠宮両殿下が、一人の女の狂態によって、子供を作る権利を10年以上奪われ、徳仁皇太子夫妻は弟夫婦に無用の犠牲を強いてそれを良しとしていたことは確かである。

マスコミが「皇位継承の危機」について報道する度に、「お前らが一体どの口でそれを言うのか」という思いを強くする。皇太子妃が雅子妃ではなく、ごく一般的な価値観を持つ良心的な女性だったならば、最低でも二人の親王が秋篠宮家に誕生し、皇統の危機自体が発生しなかったように思われる。こんなことで「雅子さまおかわいそう」という道理が通るなら、津波で家や家族を失った被災者は一体何と形容すべきだろうか。

マスコミを使って皇族を攻撃する小和田一族のいやらしい手法は、ネットの普及によって通じなくなりつつあるが、まだまだ皇統の乗っ取りを諦めたわけではないだろう。東宮一家が健在な限り潜在的な皇統の危機は続くのであり、小和田家の国盗物語まだ始まったばかりなのである。

※1994年5月12日 紀子妃殿下第二子ご懐妊発表の翌日に涙目で公務に出てきた雅子妃。この非常識な行動が原因で秋篠宮家の新たな懐妊は10年以上停止する。秋篠宮両殿下のご心情はいかばかりだっただろうか。

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※涙目公務の翌日の1994年5月13日 戦没殉職船員追悼式にて花束を捧げる雅子妃。横目となぜか含み笑いの口元に注目

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参照元 : 日本が好きなだけなんだよ