大分ザビエル像 制作者が違和感「イメージ違う」作り直し

2015年12月20日 21時12分

150122103054_1

今春開業したJR大分新駅ビル前に設置されたばかりの聖フランシスコ・ザビエル(1506〜52年)のブロンズ像が20日未明、新しい像に交換された。同じ型から鋳造され、前と大きさも形も同じだが、制作者の彫刻家、雨宮透さん(72)=山形市=が「自分のイメージと違う」と違和感を覚えて作り直した。制作を依頼した大分市は「交換しなくていいのでは」と困惑したが、費用全額を雨宮さんが負担して交換する異例の事態になった。

市は駅前公園整備の一環として、当時の大分市などでキリスト教を布教したザビエル像の設置を計画。雨宮さんが約3年かけて構想を練り、おだやかな表情で両手を広げる像が3月21日に除幕された。だが雨宮さんは翌日から像の色合いなどの出来栄えに違和感を覚え、そのうち「作家として納得できない。自分の死後も残ると思うと、居ても立ってもいられない」心境になったという。

ブロンズ像は作家が粘土で造形したものを石こうで型を取り、ブロンズで鋳造する。雨宮さんは6月、前回と同じ型を使って別の業者に鋳造してもらい、「イメージに近い物ができた」と10月に市に交換を申し入れた。

像の再鋳造だけで数百万円を要したが、作業を見守った雨宮さんは「失礼な言い方だが(前との違いは)一般の人が見ても分からない。あえて言えば(像の)色合いや肌合いが微妙に変わる。今回の出来は満足です」とほっとした表情。「市民には像と対話してもらい、心と心が触れ合う場所になってほしい」と話した。【池内敬芳】

参照元 : 毎日新聞


▼交換される前のザビエル像=JR大分駅前で2015年12月19日午後3時23分、池内敬芳撮影

2015-12-22_085505

フランシスコ・ザビエル

Franciscus_de_Xabier

フランシスコ・デ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)は、ナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。

2015-12-22_091054

ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。

名前について
生家のハビエル城はナバラ王国のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛りである。フランシスコの姓はこの町に由来する。この姓はChavierやXabierreなどとも綴られることもある。Xavierはポルトガル語であり、発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで、発音はシャビエルであったと推定される[3][4]。現代スペイン語ではJavierであり、発音はハビエル。ただし、彼はバスク語およびナバラ語のバイリンガルだったと推定される。
 
かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。「サヴェーリョ」がより近い)という呼び名を用いていた[5]。現在はおもに「ザビエル」が用いられるほか、ザビエルにゆかりのある山口県では「サビエル」と呼ばれる(例: 山口サビエル記念聖堂、サビエル高等学校)。

生涯
 
青年期まで
1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世(フランス貴族アルブレ家の出である)の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。

▼ハビエル城

Castillo_javier

1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。

1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。

これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立である。この時のミサは、当時唯一司祭となっていたファーブルが執り行った。一同はローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。

東洋への出発
 
ザビエルがとった航路

Xavier_f_map_of_voyages_asia

▼リスボン(1572年の図)

Braun_Lisboa_UBHD

ゴアの古地図(18世紀の作)

GoaIndiaeOrientalisMetropolis

ゴア、ボン・ジェズス教会外観

800px-Bom_jesus

マラッカの港と要塞(オランダ統治時代の1726年の図)

Antique_Map_Valentijn_Malacca

当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。

ザビエルはシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。

8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月マラッカに、さらに1546年1月にはモルッカ諸島に赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人であった。

日本へ
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。

一行は明の上川島(英語版)(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。

▼ザビエル会見の地(一宇治城)

800px-Meet_site_of_Francis_Xavier_and_Lord_Shimazu_Takahisa

1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た[7]。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。

しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。

1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い、同年12月17日に周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。

失意の京滞在 山口での宣教
1551年1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願。

しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本にメガネを持ち込んだといわれる。

これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。

また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎となった。

豊後での宣教
ザビエルは、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれる)。1551年9月、ザビエルは豊後に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、宗麟の保護を受けて宣教を行った(これがのちの大友氏瓦解の遠因のひとつとなっている)。また、豊後に眼鏡を伝来させた。

再びインドへ
日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。

種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。1552年2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。

中国布教への志しと終焉、死後列聖まで
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。

▼ゴアのボン・ジェズ教会内・ザビエルの遺体が安置された棺

800px-Casket_of_Saint_Francis_Xavier

遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。1553年2月マラッカに移送。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された[9]。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。棺の開帳は10年に1度。[10]

右腕下膊は、1614年にローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、これをもって「奇跡」とされた。以後、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されている。そしてこの右腕は1949年(ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)のおりに日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された。
なお右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。

ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドなどの守護聖人とされている。

ザビエルと日本人
日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡 3』p96より)と高評価を与えている。

▼1949年に日本に運ばれたザビエルの右腕

_Francis_Xavier_1949

ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことであった。

布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる。

ザビエルの名を戴くカトリック教会・団体

日本国内の教会
・山口サビエル記念聖堂(山口県山口市)
・平戸ザビエル記念教会(長崎県平戸市)※教会の保護者は大天使聖ミカエル
・鹿児島カテドラルザビエル教会(鹿児島県鹿児島市)

▼山口サビエル記念聖堂

800px-Yamaguchi_Xavier_Memorial_Church

このほか、日本国内にはザビエルを教会の保護者(保護聖人)として名を戴く聖堂(教会)が33ある。

日本国内の団体
・聖ザベリオ宣教会(日本管区・大阪府泉佐野市)
・郡山ザベリオ学園小学校・中学校(福島県郡山市)
・会津若松ザベリオ学園小学校・中学校・高等学校[16](福島県会津若松市)
・サビエル高等学校(山口県山陽小野田市)

日本国外の教会
・スペイン
・サン・フランシスコ・ハビエル教会(スペイン語版)(カセレス)
・サン・フランシスコ・ハビエル教会(スペイン語版)(マドリード州ピント)
・フランス
・サン・フランソワ・ザヴィエ教会(フランス語版)(パリ) - 教会の前に同名の地下鉄の駅がある。
・中華人民共和国
・董家渡聖フランシスコ・ザビエル教会(上海市黄浦区)
・聖フランシスコ・ザビエル教会(マカオ特別行政区)
・フィリピン
・聖フランシスコ・ザビエル教会(バタンガス州Nasugbu)
・マレーシア
・聖フランシスコ・ザビエル教会(マラッカ)
・シンガポール
・聖フランシスコ・ザビエル教会(英語版)
・アメリカ
・聖フランシスコ・ザビエル聖堂(英語版)(アイオワ州ダイアーズビル)
・サン・ハビエル・デル・バック伝道教会(英語版)(アリゾナ州ツーソン近郊) - 1699年にキノ神父によって設立。
・ザビエルゆかりの聖堂、遺物所在地など

日本国内
・カトリック神田教会(東京都千代田区)、関町教会(東京都練馬区)、上記の山口サビエル記念聖堂および鹿児島カテドラルザビエル教会には、ザビエルの遺骨が安置されている。
 
・カトリック関口教会(東京都文京区) - ザビエルの胸像型の聖遺物容器が展示されている。
 
・大分トラピスト修道院展示室(大分県速見郡日出町) - 2008年イエズス会ローマ本部より聖フランシスコ・ザビエル右腕の小片(皮膚)が寄贈された。展示室内に常時顕示されている。

日本国外
・ザビエル城付属聖堂(スペイン・ナバラ州) - ザビエルの出身地。※「ザビエル」は彼以前からの地名(上記「人名について」参照)。
 
・ボン・ジェズ教会(インド・ゴア) - ザビエルの遺体が安置されている。
 
・ジェズ教会(イタリア・ローマ) - ザビエルの遺体の一部が安置されている。
 
・聖ヨセフ修道院および聖堂(中華人民共和国・マカオ特別行政区) - ザビエルの上腕部の遺骨が安置されている。
 
ザビエルの銅像・記念碑等

日本
※府県の配列はザビエルの来訪順

鹿児島県
・ザビエル来鹿記念碑(鹿児島市) - 元は記念教会だったが太平洋戦争中に空襲で焼失。1949年、ザビエル来航400年を記念して教会の廃材を使用し設置。奥にはザビエルの胸像がある。市電「高見馬場」または「天文館通」電停下車、鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいの「ザビエル公園」内。
 
・ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの銅像 - ザビエル来航450周年を記念して、1999年にザビエル公園内に設置。
 
・ザビエル上陸記念碑(鹿児島市) - ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年に設置。かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。市バス「祇園之洲公園」バス停下車。
 
・ザビエル会見記念碑(日置市) - 1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビエル一行が島津貴久に謁見したとされる伊集院一宇治城跡に設置。JR伊集院駅下車、または鹿児島市から車で約30分。

長崎県
・ザビエル来航記念碑(平戸市) - 1949年、ザビエル来日400年を記念して崎方公園内に建立(ザビエルの平戸訪問は1550年)。
 
・ザビエル記念像(平戸市) - ザビエルの平戸来航を記念して、カトリック平戸教会(現:平戸ザビエル記念教会)前に1971年建立。これ以降、同教会は「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」の通称で呼ばれるようになり、現在は名称も「平戸ザビエル記念教会」に改められている。
 
・このほか、長崎市の日本二十六聖人記念館に『ザヴィエル像』(フレスコ、1966年長谷川路可作)がある。(ザビエル自身は、現在の長崎市を訪れたことはない。)
 
山口県
・聖サビエル記念公園(山口市) - 日本最初の教会跡地にある記念公園。サビエル記念碑も設置されている。また、毎年12月には「日本のクリスマスは山口から」フェスタが開催されている(1997年スタート)。JR上山口駅または日赤口バス停で下車。
 
・「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑(下関市) - 唐戸市場そばにある。1550年11月頃にザビエルが下関に上陸したことを記念している。
 
大阪府
・ザビエル公園(堺市堺区) - 堺の豪商日比屋了慶が邸宅の一部をザビエルに提供した。現在、その場所にある戎公園は、サビエルの功績を顕彰する碑が建てられたことから通称「ザビエル公園」と呼ばれている。

大分県
・聖フランシスコ・ザビエル像(大分市大手町) - ザビエルの来航を記念して遊歩公園内に建立。左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家佐藤忠良による1969年の作品である。背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描き込んだモニュメントも設置されている。JR大分駅から徒歩約10分。

・聖フランシスコ・ザビエル像(大分市要町) - 2015年2月21日にオープンした大分駅府内中央口(北口)駅前広場に、南蛮世界地図を挟んで大友宗麟公像と向き合う形で建立されている。

(以下略)

参照元 : wiki/フランシスコ・ザビエル