秘伝の毒殺技術、乱交パーティー…! ヤバすぎる一族「ボルジア家」の血塗られた歴史

2016.01.04

歴史を紐解けば、権力の掌握と維持・拡大のためには手段を選ばなかった残虐非道な暴君や独裁者は決して少なくない。その多くは政治や軍事の世界、あるいは実業界から登場してくるが、宗教界から出現してくる場合もある。15、16世紀にイタリアで繁栄し2人のローマ教皇を輩出した貴族の家系「ボルジア家」はまさに宗教的指導者の立場を最大限に利用して謀略と強欲の限りを尽くした一族であった。

■最も世俗化した史上最悪のローマ教皇が誕生

スペインのバレンシア地方を地盤とする貴族「ボルジア家」から待望のローマ教皇・カリストゥス3世が輩出されたのは1455年4月のことであった。

13世紀半ばからはじまった神聖ローマ帝国の弱体化により、当時のイタリアではローマ教皇庁領をはじめ、ナポリ王国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国などが帝国の支配から抜け出して分離独立の構えを見せていた。ローマ教皇庁はまた、神聖ローマ皇帝との宗教対立にも直面しており、カトリックの最高位であるローマ教皇であっても群雄割拠のこの時代にあってはじゅうぶんな影響力を持つことはなかったと考えられる。

それでもボルジア家にとっては快挙といえるローマ教皇・カリストゥス3世の就任であったが、その時点で66歳とすでに高齢で、病気がちでもあったため、さしたる活躍を遂げることもなく在任期間3年で没してしまう。功績といえるものもなく人々の印象に残らない教皇であったが、ボルジア家に対しては手柄をあげていた。在任中にカリストゥス3世は甥のロドリーゴを教皇に次ぐ聖職階位である枢機卿に登用することに成功していたのだ。
 
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この当時のローマ教皇庁は、その歴史上最も“世俗化”していたとも言われ、ロドリーゴもまた例に漏れず金儲けと色欲に堕していたといわれており、一説では数人の私生児を愛人たちに産ませていたということだ。そして1492年7月、インノケンティウス8世が亡くなったことで、“七光り”の枢機卿・ロドリーゴとボルジア家に再びチャンスが到来する。

次の教皇の座は、ロドリーゴを含む3人の有力な枢機卿によって争われることになったのだが、ここでロドリーゴは他の2人の枢機卿に対して一族の財産を投じたなりふり構わぬ大盤振る舞いの買収工作に出たのだ。事前の大方の予想では、ロドリーゴが教皇になる可能性は極めて低いと見られていたが、多かれ少なかれこの時代の他の枢機卿も堕落しており買収工作は成功。こうして“暴君”ロドリーゴの時代が幕を開けたのだ。

■ボルジア家秘伝の毒殺で政敵を次々と始末

歴史上の英傑・アレキサンダー大王にちなんで自ら「アレクサンデル6世」と名を改め、教皇として“治世”に乗り出したロドリーゴだが、就任後、何はなくとも優先させたのはようやく手に入れた権力の基盤を強固にすることだった。
 
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まずロドリーゴは愛人に産ませた息子である16歳のチェーザレを大司教に任命し、今後の大仕事を前に片腕として起用した。そしてまた、同じ愛人に産ませた美貌の娘・ルクレチアを政略結婚の道具にすることで、ロドリーゴが思う存分暴れ回る舞台が整ったのだ。ちなみにこのチェーザレとルクレチアは同じ愛人から生まれた実の兄妹であるのだが、お互いに愛し合う関係であったといわれている。

そしてアレクサンデル6世ならぬ、暴君ロドリーゴの世が到来する。教皇庁内で気に入らない者や利用価値のない者などを次々罠にかけて毒殺したのだ。いうまでもなく毒殺の実行犯はチェーザレである。犯行に用いられたのは「カンタリス」と呼ばれる白い粉状の毒薬であるといわれ、詳しい成分はわかっていないがボルジア家で代々伝えられている毒薬であるという。ボルジア家は毒殺のプロでもあったのだ。また、こうして“始末”した教皇庁内の人物の残された財産をことごとく没収し、ロドリーゴの資産は膨れ上がっていったのだった。

一方、ルクレチアの最初の政略結婚はミラノ公国の名家の息子であったが、その後ミラノ公国との同盟が解消されて利用価値がなくなると、ロドリーゴはすぐさま娘の夫の毒殺を命じたという。しかしこの毒殺は実行直前に逃げられてしまい未遂に終わった。

独り身になったルクレチアに、軽率にも侍従の若者が近づき身体の関係を持ったのだが、それを知ったチェーザレは激怒し、剣を抜いて若者を追いまわして刺し殺したという。

ルクレチアの2番目の夫はナポリ王国の貴族の息子だったが、これもまた途中でナポリ王国との関係が重要なものでなくなり、この夫はその後チェーザレたちに殺されることになった。また、一時期ローマ教皇庁でかくまっていたオスマン帝国のバヤジット2世の弟であるジェム王子がフランスへ身柄を引き渡された後に謎の死を遂げたのも、チェーザレの仕業であると考えられている。ボルジア家の人間にとって、遅効性のある毒薬の扱いもお手の物であったようだ。
 
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■聖なる宮殿で何度も催された乱交パーティー

ローマ教皇という立場でありながら毒殺を何とも思わないロドリーゴは、一方で性に関するモラルも“タガが外れて”いた。生涯独身を貫き禁欲を旨としなければならない聖職者という立場を全く意に介さず、宮殿に愛人や売春婦を呼ぶことが常態化していたという。記録されている中で最も悪名高いのが1501年10月30日に宮殿で開かれた「栗拾いの宴(Banquet of Chestnuts)」と呼ばれる乱交パーティーだ。

チェーザレが主催したといわれているこの栗拾いの宴には、教皇庁内の枢機卿たちが招かれ、50人にも及ぶ全裸の売春婦たちが参加者を“楽しませた”ということだ。この宴の目的は、アレクサンデル6世を非難する教皇庁内の声をなだめるためともいわれ、また枢機卿たちに無礼講をさせることで“弱みを握る”ためともいわれている。

■“自業自得”の最期

神をも恐れぬモラルハザードぶり、人非人ぶりでまさに“やりたい放題”のロドリーゴだったが、その最期は自業自得ともいえる呆気ないものだった。

その時もまた、大富豪の枢機卿の財産を狙ってロドリーゴとチェーザレが暗殺を目論んだ案件であった。枢機卿は自らの邸宅でパーティーを開くとして教皇一行を招待したのだが、願ってもないチャンスとばかりにロドリーゴとチェーザレは枢機卿に毒を盛る計画を立てたのだ。
 
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しかし文字通り、ここでロドリーゴの運は尽きた。ロドリーゴたちが手土産として差し出した毒入りのワインを、何かの手違いで給仕がロドリーゴとチェーザレのグラスに注いで提供したのだ。

こうなることを全く予想していなかった2人は、どちらも毒入りワインに口をつけてしまう。ロドリーゴの様子が急変したことで、チェーザレは今飲んだワインが自分たちが持ってきた毒入りワインであることに気づく。医者を呼び急遽宮殿へと帰った2人だったが、ほどなくしてロドリーゴは死去。72歳であった。

一命を取り留めたチェーザレだったが、中毒の後遺症で皮膚がただれ、かつての美貌は失われてしまう。奇しくも亡きロドリーゴの後に教皇となったのは、毒入りワインで暗殺されるはずであった枢機卿であった。今やすべてを知った新教皇のユリウス2世はロドリーゴのこれまでの悪行を厳しく断罪。生き残ったチェーザレを逮捕する。

それでもチェーザレは残された悪運の限りを尽くし監禁された独房から脱走する。ローマ教皇領を離れて外国の知人を訪ね歩くが、その過程で当時の反スペイン勢力に保護されることになる。そして一戦士としてスペイン軍と戦い、1507年に戦闘中に敵の攻撃に遭い戦死。31歳であった。

アレクサンデル6世ことロドリーゴは史上最悪の教皇と呼ばれ、ユリウス2世によってその悪行が世に暴かれたボルジア家はその後急速に没落していくのだが、意外なことに最近はその評価にこれまでにない解釈がもたらされているようだ。この時代の堕落した指導者層はおしなべてアンモラルで残虐非道であり、ことさらボルジア家とアレクサンデル6世をあげつらうこともないのではないか、という指摘だ。

1500年前後といえば、日本では戦国時代の真っ只中だ。血で血を洗う生き馬の目を抜く時代の波の中では、物事はキレイごとばかりでは済まされないこともあるだろう。ひるがえって今日、時代は明らかに大きなうねりを見せているともいえるが、今の時代にあってこのロドリーゴとボルジア家から何を感じ取るのかは、人それぞれということになるのかもしれない。

(文=仲田しんじ)

参考:「History Extra」、「Wikipedia」、ほか

参照元 : TOCANA


ボルジア家

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ボルジア家(イタリア語: Borgia イタリア語発音: [ˈbɔrdʒa]、バレンシア語: Borja [ˈbɔɾdʒa]、スペイン語: Borja [ˈborxa])は、スペイン・アラゴン王国のボルハ(スペイン語版、英語版)(現アラゴン州サラゴサ県の町)に由来する家名を持ち、バレンシアを発祥とする、15・16世紀にイタリアで繁栄した貴族の家系である。

その一族にはローマ教皇カリストゥス3世、アレクサンデル6世、ロマーニャ公爵にして教会軍総司令官チェーザレ・ボルジア、フェラーラ公妃ルクレツィア・ボルジア、スクイッラーチェ領主ホフレ・ボルジアらがいる。

アレクサンデル6世の息子フアン・ボルジアの系統にあたるガンディア公家は1748年に断絶した。ガンディア公家からはイエズス会の第3代総長フランシスコ・ボルハが出ている。スクイッラーチェ侯家はボルジア家の子孫である。今日、ボルジア家を名乗る家系には、ボルジア・デ・ミラ家、ボルジア=ランソル家、ボルジア=マトゥッティ家があり、これらはボルジア家の女系にあたる。

なお、日本では慣習的に「ボルジア」の表記が用いられているが、実際には「ボルジャ」の表記の方がよりイタリア語の原音に近い。

ボルジア家のイメージ
アレクサンデル6世は世俗化した教皇の代表的存在であり、(本来なら持つべきではない)息子のチェーザレや娘のルクレツィアを使って政治的な辣腕を振るい、一族の繁栄と教皇領の軍事的自立に精力を注いだ。これによって、ボルジアの名前は好色さ、強欲さ、残忍さ、冷酷さなどを代表するものとなった。カンタレラと呼ばれるボルジア家独特の猛毒を用いて政敵を次々に毒殺した、チェーザレとルクレツィアは近親姦の関係であったなどの噂が付きまとっている。

このような悪いイメージはヨーロッパでは根強く、文学作品や映画等でしばしば言及されている。例えば、映画「第三の男」では、「ボルジア家の悪政はルネッサンスを生んだが、スイスの平和は鳩時計を産んだだけだ」との台詞が登場するし、『ゴッドファーザー Part III』ではバチカンの老獪なやり方に苛立った主人公が「ボルジャめ!」と吐き捨てるシーンがあったり、『モンテ・クリスト伯』の宝物は、ボルジア家に暗殺されたローマの枢機卿が隠したものとされている。

参照元 : wiki/ボルジア家