USCAR文書 “天皇メッセージ”

米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開しました。(平成20年3月25日)

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】

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内容は概ね以下の通りです。

(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。

メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。

天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。≫PDF画像(2頁)(226KB)

参照元 : 沖縄県公文書館


カーチス・ルメイ無差別爆撃日本人大量殺人犯と売国奴 昭和天皇裕仁 佐藤栄作 小泉純也 メモ

2015年09月10日

無差別爆撃 日本人大量殺人鬼 カーチス・ルメイ

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田布施システム売国奴 佐藤栄作と昭和天皇裕仁はなぜ、こんな殺人鬼に勲一等旭日大綬章を授与してしまったのか?

原爆の指揮をとったカーチス・イールメイに勲章を送ったヒロヒト







カーチス・イー・ルメイに勲章

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対日戦
1944年ルメイはポール・ティベッツたちからB29の操縦法を学んだ課程の終わりに「この飛行機で戦争に勝てるぞ」と予言している。

▼空襲を受ける東京市街(1945年5月25日)

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1944年8月20日イギリス領インド帝国のカラグプル(英語版)に司令部を置く第20爆撃集団司令官に赴任、同じ連合国イギリスや中華民国と共同で行う対日作戦として、中華民国の重慶に設けられた基地からの八幡製鉄所爆撃に携わった。ルメイは毛沢東と交渉し、物資と引き換えに北支地方の気象予報を定期的に通報させた。この情報は中国からの爆撃で役に立ち、ルメイは後にマリアナに移ってからも毛沢東から情報を得ていた。

ルメイは精密爆撃の技術改良に力を入れ飛行機工場を目標にした昼間精密爆撃で成果を上げていった。1944年10月25日大村第21海軍航空廠を目視で爆撃させその大半を破壊した。第21爆撃集団司令ヘイウッド・ハンセルがよくて14%の精度だったのに対しルメイは41%を目標300メートル以内の高精度で投下している。またルメイはハンセルと違い兵站上の難問にも対処しなければならなかったが、空襲成果を上回り、全く言いわけをせず、延期もなく、問題を解決していった。

第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任。 アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた。1944年12月9日ルメイに対して「B29ならどんな飛行機も成し遂げられなかったすばらしい爆撃を遂行できると思っていたがあなたこそそれを実証できる人間だ」と手紙を送った。アーノルドは中国からの爆撃をやめさせてルメイをマリアナに合流させると1945年1月20日ルメイを司令官に任命した。

3月10日東京大空襲を指揮。ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、高度1500mから3000mに変更した。理由はジェットストリームの影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。

しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手をB29から取り除き一機当たり爆弾を200キロ増やせるようにし、編隊ではなく単機直列に変更した。ルメイの変更に乗員は恐怖したが、結果的にB29の損害は軽微であった。誘導機を務めたトム・パワー参謀長は「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告した。

3時間にも満たぬ間に、日本は死者行方不明含め10万人以上、被災者100万人以上、約6平方マイル内で25万戸の家屋が焼失したが、ルメイの部隊は325機中14機を損失しただけであった。

ルメイが東京空襲に成功すると3月10日アーノルドは「おめでとう。この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」とメッセージを送る。またルメイに「空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と賛辞を送った。戦後、ルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女子どもを殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは―ふざけるな」と語った。

焦土化作戦は東京や大阪、名古屋等の大都市を焼き払った後は、富山市や郡山市などの地方の中小都市[15]までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。

戦後ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた。

日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し現場で効果的な戦術を考案し実行した責任がある。しかし爆撃は航空軍司令官ヘンリー・アーノルドに命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃の枠組みは、統合参謀本部の決定、焼夷弾攻撃の準備、東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試行などルメイ就任前から進められていた。

1945年5月原爆投下部隊である第509混成部隊が準備を終えてルメイの部隊に移動してきた。ルメイは投下部隊の要望を最優先事項として便宜を図るように命令されていた。当時ルメイは空襲に絶対的な自信を持っていたため、原爆が必要とは考えていなかった。指揮官のポール・ティベッツ大佐が立案した原爆投下命令書草案をもとに、8月2日ティベッツらはルメイ司令部で細目の決定を行った。ルメイは「京都は大した軍事的目標ではない。神社みたいなものがいっぱいあるだけだ。

それに普通の市民を爆撃してみたって何の役にも立ちはしない―引き合わんよ」と京都への投下には反対した。一方で多くの軍隊と軍需工場がある広島には賛成した。その後、ルメイはティベッツが作成した草案をほぼそのまま命令書第13号としてティベッツに渡した。

1945年8月15日終戦。9月20日記者会見でルメイは「戦争はソ連の参戦がなくても、原爆がなくても、二週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は、戦争終結とはなんら関係ありません」と答えている。しかし晩年の1988年には、著書で「原爆を使用せずに戦争を終わらせることができたとしても、私は、原爆投下は、賢明な決定だったと思います。

なぜなら原爆投下が降伏交渉を早めたのです」と語り、原爆投下は、上陸作戦前に日本を降伏させ、百万のアメリカ兵の命を救ったというアメリカ政府の公式説明を支持している。終戦後、ルメイは北海道からシカゴまでノンストップ記録でB29を操縦して帰国した。

冷戦
戦後、航空資材軍団司令本部に着任。国防総省で初代の研究開発航空副参謀長を務める。爆撃機開発の責任者としてヴァルキリー計画を指揮、当時の主力機であるボーイングB-52爆撃機や、世界初の超音速爆撃機であるコンベアB-58爆撃機の後継機となる超音速爆撃機の開発を指揮する。

1947年10月、ドイツ・ヴィースバーデンにある米軍航空欧州本部(現・在欧アメリカ空軍)の指揮官を拝命(この直前の9月、陸軍航空軍は正式に独立し現在のアメリカ空軍となった)。ベルリン封鎖に対抗する“空中架橋”作戦に従事。

1948年帰国後、新設される戦略空軍を想定し、ネブラスカ州オファット空軍基地本部を設立する。

1949年から1957年まで、戦略航空軍団(SAC)司令をつとめた。 朝鮮戦争においてアメリカ空軍は大きな役割を果たした。ルメイは「我々は朝鮮の北でも南でも全ての都市を炎上させた。我々は100万以上の民間人を殺し数百万人以上を家から追い払った」と語った。

1957年7月空軍副参謀長。1957年11月11日 KC-135による無給油連続飛行世界記録樹立を指揮し、年度優秀パイロットに贈られるハーモン・トロフィーを受賞している。1961年7月空軍参謀総長となり、1965年2月に空軍を退役するまでつとめた。

キューバ危機勃発時、ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると確信し、キューバ空爆をジョン・F・ケネディ大統領に提案したが却下された。ソ連はキューバ危機の時点ですでにキューバに核ミサイル数十基を配備済みであり、この提案は“第三次世界大戦”を招きかねないものであった。

1964年12月7日、勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は、浦茂幕僚長がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。

推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。防衛庁から首相佐藤栄作、賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。

ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きい。当時、社会党、原水爆禁止団体、被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。国会でも叙勲に対し疑問視する声があった。

東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。

小泉は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」と説明している。佐藤もそれらを理由に決定を変える意思はないと表明した。ルメイは12月7日に防衛庁で小泉を訪問予定であったが、当日は事務次官三輪良雄が代理で面会している。

勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、昭和天皇は親授しなかった。後年『NHK特集 東京大空襲』(1978年3月9日 初回放送)でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイはその勲章を見せた。

ジョン・F・ケネディ政権時代の1960年から本格化したベトナム戦争では、空軍参謀総長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語し北爆を推進した。リンドン・B・ジョンソン政権下で1965年2月7日から北爆が開始された。

1965年2月に退役。1968年ベトナム戦争の推進、人種差別的政策を掲げた前アラバマ州知事ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Part) の副大統領候補として出馬するが落選した。

1970年12月14日テニアンの福祉、生活向上への優れた功績でテニアン島民から表彰状を受賞した[37]。イギリス首相チャーチルからもらったイギリス空軍殊勲十字章が自慢だった[38]。 1990年10月1日没。

参照元 : matrix_zero1ブログ



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