「フリーメーソンに暗殺された」任天堂社長急死でLINEにバラ撒かれた怪文書

参照元 : TOCANA
任天堂の岩田社長が死去 55歳
2015年7月13日 13時11分

京都に本社がある大手ゲーム機メーカー「任天堂」の岩田聡社長が、胆管腫瘍のため、11日京都市内の病院で亡くなりました。55歳でした。
岩田社長はゲームソフト会社の社長を経て平成12年に任天堂に入社し、平成14年に42歳の若さで社長に抜てきされました。
「ニンテンドーDS」や「Wii」など携帯型や家庭用の新たなゲーム機で次々にヒット商品を生み出し、国内だけでなく海外でも売り上げを伸ばしました。
しかしその後、スマートフォン向けのゲームにおされるなどして、平成23年度から3年連続で営業赤字に陥り、経営の立て直しに取り組んできました。
去年、胆管腫瘍が見つかり、一時、療養していましたが、ことしは体調が回復し、3月にはスマホ向けのゲームの開発を進めるため、IT企業の「ディー・エヌ・エー」との資本提携を発表して業界の注目を集めました。
会社によりますと、岩田社長は先週、体調が急変し、京都市内の病院で11日、亡くなったということです。
ゲーム業界けん引 カリスマ的存在
亡くなった岩田社長は、人気のゲームソフトや斬新なゲーム機を次々に発表し、世界中のゲーム業界をけん引するカリスマ的な存在でした。
大学在学中からゲームのプログラミングを始め、卒業後はゲーム開発会社の社員として、任天堂のゲーム機、ファミコン=ファミリーコンピュータ用のゲームソフトの開発に関わりました。当時、ゲーム機の性能が限られていたなか、独自の工夫を盛り込んだプログラムで複雑な動きや高度な機能を実現し、中でも風船の自然な動きを表現したゲームソフト「バルーンファイト」は初期の名作として知られています。
また、任天堂の携帯ゲーム機「ゲームボーイ」用に開発した「星のカービィ」は、当時500万本以上売り上げ、今も関連の新作ゲームが発売されるなど大ヒットシリーズとなりました。
平成14年に42歳の若さで任天堂の社長に抜てきされると、平成16年に当時新しかったタッチパネルを採用した携帯ゲーム機、「ニンテンドーDS」を発売し、世界中にブームを巻き起こしました。
また、その後発売された据置型ゲーム機「Wii」では、手に持ったコントローラーを振ってゲームを操作する独創的な操作方法を提案し、その後のゲーム機の在り方に大きな影響を与えました。
岩田社長は、日本のゲーム機が世界中に普及する礎を築いた一人としてだけでなく、今のゲーム業界をけん引するカリスマ的な存在となっていました。
参照元 : NHKニュース
代表取締役社長の逝去および異動に関するお知らせ(訃報)*PDF - 任天堂
2015.07.14

世界的ゲーム機メーカー任天堂の岩田聡社長が胆管腫瘍のため55歳で亡くなったショックからか、携帯アプリのLINEでは「暗殺された」とする怪文が流れている。
岩田社長は2002年に社長に就任すると、人気ゲーム機「ニンテンドーDS」や「Wii」などを世に送り出した業界のカリスマで、昨年、胆管腫瘍の除去手術を受けたが、その後は職務復帰して元気な姿を見せていた。6月末の株主総会にも出席していたが、死の数日前に体調は急変し入院したところ、帰らぬ人となった。
胆管腫瘍は肥満気味の男性に多いとされるがん腫瘍の一種で、早期発見して切除しても再発の可能性が高く、余命が数年以内ということも少なくない。発症には体重減少も伴うため、見た目にもやつれた感がはっきりと表れる。以前はふっくらしていた岩田社長が手術前後で細身になっていたのはまさにその例にも見え、無念の病死に疑う余地はないだろう。
しかし、LINEでは無差別に「任天堂の岩田聡社長の暗殺疑惑について」という文章がバラ撒かれた。拡散を求めるその文章は長文を分割して送信されているもので、「岩田社長はフリーメーソンを裏切って抹殺された」というトンデモ話が書かれている。
【怪文書内容】
「花札を売っていた任天堂がゲーム事業を始めたのは、ユダヤ人の大物技術者の開発したゲーム機マグナボックスオデッセイIIの日本版発売がきっかけです。これを後援したのがビデオゲーム界の父、アタリ社の創業者ノーラン・ブッシュネル氏です。アタリは日本語の『当たり』が由来で、彼らは秘密結社フリーメーソンの一部派閥を組織してテレビゲームによる日本人のコントロールを目的とし、かつて日本人を夢中にさせたユダヤ人によるインベーダーゲームブームを再燃させようとしたのです。それ以来、日本のゲーム業界で任天堂の背後にフリーメーソン系の要人がいて、日本国民の愚民化を続けてきたのです。でも、これに抵抗したのが岩田社長だったのです」
文中では、岩田社長が最近、言動を一変させたことがたくさん例に挙げられ、それがフリーメーソンを怒らせたとある。
「前は人気ソフトのスマホアプリ化を否定していたのに実際にはスマホ版を売りだした」
「スマホがゲーム機を超えることはないと課金ビジネスを否定していたのに急にDeNAと業務提携してスマホの課金事業に乗り出した」
「地球の裏側までゲームを届けると断言していたのにブラジルから撤退してしまった」
「3DSの立体視機能をオフにするとゲームがつまらなくなると発言していたのに立体視機能を削除した2DSを発売してしまった」
「海外でのソフト制作が増えていると発表したのに実際には減っていた」
「機体の値下げを全否定していたのに3DSの発売半年足らずで4割も値下げした」
これら姿勢の一転が、背後で操る面々の不快感を買っていたとし「周囲のアドバイスを聞かない独裁的な経営が大赤字を生んで辞任が促されていたのに頑なにトップの座に居座り、体調悪化でも続投を表明したことで、ついに強制的な抹殺に至ったのです」と原文。
また、過去にフリーメーソンについて「日本での会員数は約2000人で、多くは在日米軍関係者。日本人は300人程度」などと解説したことがある朝日新聞が、その命を受けて岩田社長の退陣を促す方向性で記事を出していたとすることも書かれており、朝日が3年前に取材もせずに岩田社長のインタビューを捏造していた問題は、朝日による岩田潰しの姿勢を岩田社長が感じ取って取材拒否したことが発端だとした。
病死した岩田社長にとっては、あまりに不謹慎なLINEの怪文だが、世界的にユーザーがいる「ニンテンドー」のトップだけに、訃報にあわせ、こんなものが流れてくるのは、それだけ存在感が大きかったということでもある。
(文=ジャーナリスト・片岡亮)
参照元 : TOCANA
任天堂の岩田社長が死去 55歳
2015年7月13日 13時11分

京都に本社がある大手ゲーム機メーカー「任天堂」の岩田聡社長が、胆管腫瘍のため、11日京都市内の病院で亡くなりました。55歳でした。
岩田社長はゲームソフト会社の社長を経て平成12年に任天堂に入社し、平成14年に42歳の若さで社長に抜てきされました。
「ニンテンドーDS」や「Wii」など携帯型や家庭用の新たなゲーム機で次々にヒット商品を生み出し、国内だけでなく海外でも売り上げを伸ばしました。
しかしその後、スマートフォン向けのゲームにおされるなどして、平成23年度から3年連続で営業赤字に陥り、経営の立て直しに取り組んできました。
去年、胆管腫瘍が見つかり、一時、療養していましたが、ことしは体調が回復し、3月にはスマホ向けのゲームの開発を進めるため、IT企業の「ディー・エヌ・エー」との資本提携を発表して業界の注目を集めました。
会社によりますと、岩田社長は先週、体調が急変し、京都市内の病院で11日、亡くなったということです。
ゲーム業界けん引 カリスマ的存在
亡くなった岩田社長は、人気のゲームソフトや斬新なゲーム機を次々に発表し、世界中のゲーム業界をけん引するカリスマ的な存在でした。
大学在学中からゲームのプログラミングを始め、卒業後はゲーム開発会社の社員として、任天堂のゲーム機、ファミコン=ファミリーコンピュータ用のゲームソフトの開発に関わりました。当時、ゲーム機の性能が限られていたなか、独自の工夫を盛り込んだプログラムで複雑な動きや高度な機能を実現し、中でも風船の自然な動きを表現したゲームソフト「バルーンファイト」は初期の名作として知られています。
また、任天堂の携帯ゲーム機「ゲームボーイ」用に開発した「星のカービィ」は、当時500万本以上売り上げ、今も関連の新作ゲームが発売されるなど大ヒットシリーズとなりました。
平成14年に42歳の若さで任天堂の社長に抜てきされると、平成16年に当時新しかったタッチパネルを採用した携帯ゲーム機、「ニンテンドーDS」を発売し、世界中にブームを巻き起こしました。
また、その後発売された据置型ゲーム機「Wii」では、手に持ったコントローラーを振ってゲームを操作する独創的な操作方法を提案し、その後のゲーム機の在り方に大きな影響を与えました。
岩田社長は、日本のゲーム機が世界中に普及する礎を築いた一人としてだけでなく、今のゲーム業界をけん引するカリスマ的な存在となっていました。
参照元 : NHKニュース
代表取締役社長の逝去および異動に関するお知らせ(訃報)*PDF - 任天堂
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。