坂本龍馬が英雄だって?国賊ですよ?こんな奴を英雄視してる連中の気が知れない。龍馬よりも、この記事を書かれた人の方がよっぽど偉いと思います。


絶賛・坂本龍馬にだまされるな

2010年2月13日

「竜馬がゆく」がえらく売れているという。司馬遼太郎は龍馬を悪人として書く事はせず、青春応援小説」として書いただけのこと。佐高信、新井喜美夫の表現からいくつか拾い集める。龍馬はみんなが持ち上げるほど立派な人ではなく功績も残していない。「竜馬がゆく」で描かれている龍馬にまつわる話はほとんど架空のことにすぎない。もっともずれのあるのは龍馬が「武器商人」だったという事実。

幕府と薩長が緊張してくると武器納入が利益を産むことになり「武器商人」が絡んでくる。龍馬は彼らと手を組んで暗躍した。この頃、一儲けを企んでイギリス政府をアヘン戦争に導いたイギリスの商社ジャーデイン・マンセン商会が香港にあった。

同商会が支店長として日本に送り込んだのが長崎のグラバー邸の主グラバー。少し前、アメリカの南北戦争が当初の予定の5年より1年短い4年で終わったため、アメリカ政府が5年分発注した武器が1年分不良在庫として残った。

これを知ったグラバーは、日本でグラバー商会を立ち上げマセソン商会からの独立を企てる。薩摩と長州に、南北戦争で売れ残った武器を買わせ大もうけしようという魂胆で、その「手先」として引き入れたのが坂本龍馬。龍馬が薩長連合に腐心した本当の理由が金儲けということ。

事実、龍馬はグラバーを通じて膨大な利益を得た。弟子の中江兆民によれば、龍馬は儲けた金を派手に使い、当時日本一の遊郭「丸山」で豪遊し果ては梅毒に感染したという。龍馬は機を見るに敏で、「商才」はあったかもしれないが、英雄でも偉人でもなかった。

むしろ善良な日本人が大量に死ぬことになる内戦にこの国を導いた張本人だった。「海援隊規約」にいう。「目的は運輸、射利、開拓、投機及び藩の支援」と。当時は、商人でも儒教道徳の社会ゆえ「利益追求」はハッキリとは言いにくい時代だった。

手段を選ばず利益を得る「射利」ということをドーンと打ち上げるところが、龍馬らしい。要はトッポイのだ。海援隊誕生直後に起きた「いろは丸事件」はひどかった。龍馬は大洲藩から「航海5日間について500両」の賃貸契約を結び「いろは丸」を借りた。

その船が4月23日の真夜中、紀州藩所有の軍艦「明光丸」と衝突、重量が5分の1に満たないいろは丸は沈没しかけていた。龍馬は、本来なら部下の救助や生死の確認をすべきところ、「明光丸」に乗り込み、乗組員に「当直士官が甲板にいなかったろう」等誘導尋問をしたり、後の賠償責任を有利にするための工作をする。むしろ龍馬こそ船長として「いろは丸」にとどまるべきなはずだ。

そして結果として、賠償金として、紀州藩から83000両(後に7万両)も分捕ったのだ。こういう張ったりで巨額な儲けをもくろむ人物は現在もいる。龍馬にとり、儲けるためには「江戸時代」は古臭いと映っていた。

新しい時代で大儲けしようという壮大な野望はあったかもしれない。「明治維新は年貢半減を農民にもたらす」として農民の支持を懸命にとろうとして、逆に「ニセ官軍」に落としめられ斬首された「赤報隊」の相楽総三と比べると、龍馬は明らかに、農民と反対の側にいたことは事実だ。英雄なんてとんでもない。NHKにだまされるな。

参照元 : 玉村町議「石川まさお」ブログ


日本のマスコミがどの目線で誰の為に機能しているのかが明確に分かる最高の素材が、

「明治維新の美化」
「昭和天皇の美化」
「山本五十六の美化」

そして、「坂本竜馬の美化」と思います。説明不要ですが、最近ではネット上での「田母神美化」も同じ流れから来るものです。だから似非右翼は竜馬を持ち上げます。(テレビの洗脳に釣られた馬鹿も居るでしょうけど・・・)

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●こんな奴を演じた東芝のテレビ売り兼、歌手の福山某は絶対許さない!

●こんな奴を生涯宣伝しつづけた金八先生のアイツを絶対許さない!

●こんな奴のコスプレした三橋貴明を絶対許さない!

●こんな奴を尊敬してるソフトバンク・孫正義を絶対許さない!

●こんな奴を英雄視する幸福の科学を絶対許さない!

●こんな奴を美化する似非右翼一派を絶対許さない!




龍馬は操られていた。伊藤博文、陸奥宗光、坂本龍馬を操っていたのはフリーメイソン一味のグラバー、フルベッキ、アーネスト・サトウ。

明治維新の本質はイギリス貴族による日本支配だった。

今、そしてこれから起きる政変も彼らの長期作戦の一部だ。この事を明確に意識しなければ平成維新が亡国維新になるだろう。



反幕府勢力への最大の武器支援者と言われるグラバー氏の石碑にはロスチャイルド家の下部組織であるフリーメーソンのマークが刻まれている。

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日本人が知らない日本より、一部抜擢

明治以降から現在に至る歴史の中で、特に戦争とお金の分野では、いつもロスチャイルド家またロックフェラー家が、深く関わっていました。彼らはけっして歴史の表舞台に出てくることはありませんが、日本の歴史上の大事件の裏には、いつも彼らの存在があったのです。

明治以降の日本の歴史は、ロスチャイルド家およびロックフェラー家、また彼らに仕える国内の政治家によって起こされてきた戦争の歴史であるといっても過言ではありません。

明治維新は、「文明開化」といわれるように今の近代化された日本の出発点です。

人々のファッションが変わり、考え方、 政治、経済、法律、 宗教にいたるまで、すべてが近代化の名のもとがらっと一気に西洋化していきました。

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この歴史に残る一大事件を成し遂げたのは、地方の侍でした。おもに薩摩藩・長州藩・土佐藩など地方の下級武士たちです。

中でも代表的な維新の三傑といわれるのが、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(旧名:桂小五郎)ですが、当時、敵対していた両藩を結びつけたのが坂本龍馬であるとされています。

この両者が結び付いた軍事同盟である薩長同盟の結果、倒幕運動が功を為し、明治維新に至ったとされています。今でも語り継がれる坂本龍馬による大手柄です。しかし、実際には……。

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その背後にトーマス・グラバーというイギリスの武器商人の存在がありました。

グラバーは、ロスチャイルド家の系列会社であったマセソン商会の社員として中国の上海に派遣され、その後、日本代理人として長崎に赴任し、グラバー商会を設立します。来日当初は、生糸や茶の卸売をしていましたが、幕末の混乱に着目して薩摩・土佐藩士など倒幕派を相手に、武器や弾薬を売り始めます。

当時、幕府に敵対していた長州藩は、長崎のグラバーから武器を買うことを幕府から禁じられていました。そこで、龍馬はグラバーから分けてもらった武器を薩摩藩名義で、長州に流すことで両者を和解させることに成功したのです。

実のところ、これは龍馬を使って薩長を結びつけ、その後、両藩を支援して幕府を転覆させるというグラバーの計画でした。

また、それ以前にも敵対していたとされる薩摩藩の五代友厚や長州藩士の伊藤博文など、両者ともに交流のあったグラバーは、彼らにイギリス留学を斡旋し、当地で交流させます。

つまり、龍馬が両者をつなぐ前に海の向こうではグラバーの仲介で、薩摩と長州はすでに結びついていたのです。

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なかでも、グラバーの手引きによりイギリスに密航し留学した長州藩の5人の若者たちは「長州ファイブ」または「マセソンボーイズ」と呼ばれました。というのも、今の価値で10億円とも推測される彼らの留学費用の大部分を負担したのはグラバーの勤めるマセソン商会の社長、ヒュー・マセソンその人だったからです。

さらにヒューマセソンの上には、世界一の金融王ネイサン・ロスチャイルドの息子であるライオネル・ロスチャイルドがいました。ライオネルやマセソンにかわいがってもらった5人の若者たちは日本に帰り、明治新政府ができた後、日本の最高指導者となります。

いわば、ロスチャイルド家当主の子分であった若者たちによって、明治の日本が作られていたわけです。

明治維新をロスチャイルド家の視点からみてみるとこうなります。

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初め、日本と貿易を始めたロスチャイルド家の代理人(グラバー)は幕府の体制が古いため、なかなか効率よく取引ができません。そこで地方の若者(この場合、薩摩藩・長州藩の下級武士)に資金と武器を提供し、クーデターを起こさせます。

自分たちが教育し、支援した若者たちが政府を転覆し国を乗っ取ります。彼らを通じて日本を支配し、有利な関係を結びます。明治新政府はこのように創設されました。

しかし、所詮イギリスの後押しでできた傀儡政権ですから、その明治新政府に不満を持つ者も多く出てきます。

そこで、内戦が起きます。 戊辰戦争です。

薩摩と長州を中心に作られた明治新政府を相手に、不満を持つ旧幕府軍が戦いました。多くの悲劇を生んだ明治初期の内戦です。

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戊辰戦争は、まず新政府軍 V.S 幕府軍の主導権争いの京都「鳥羽・伏見の戦い」 に始まり、次は「東北戦争」、さらに北上して、旧幕府軍の最後の抵抗となる「箱館戦争」で幕を下ろしました。

当初、京都の戦いでは両軍の兵力は、新政府軍の約5000人に対し、 旧幕府軍が15000人。旧幕府軍側が3倍ほど数で上回っていました。

しかし、朝廷が薩長軍を官軍と認定し、錦の御旗(みはた)の使用許可を与えると形勢が逆転します。この錦の御旗は、下級公家であった岩倉具視が密造したものでしたが、朝廷の許可を得て戦地で掲げると、「天皇には逆らえない」と旧幕府軍の戦意は低下します。慶喜が軍を捨てて京都から江戸に逃走したことも重なり、新政府軍の圧勝に終わります。

これにより、地方の下級武士と下級公家によるクーデターは完遂したのです。

参照元 : 日本人が知らない日本