KGB 日本人スパイの結婚資金から養育費を負担する例もあり

2014.06.18 07:00
 
KGB-Box_Art

映画や小説の世界ではお馴染みの「スパイ」だが、実は意外と身近にもいるという。そして、日本にいるスパイは必ずしも外国人ではなく、日本人というケースも多々ある。
 
「KGBのスパイの手先が日本人の大学教授だったということもよくあります。例えば、ロシア文化が好きで、そこで知り合ったロシア人に取り込まれ、情報を運ぶなんてこともある。彼らの結婚資金から子供の養育費用まで全部、KGBが出しているなんてこともありますよ」(元警視庁刑事の北芝健さん)
 
諜報で得た情報は、意外にもアナログな手法で受け渡しされているのが実情だ。
 
「ネットなどデジタルでやりとりをするとすべて盗聴されてしまう。その点、アナログは慎重に保管すれば、機械で盗聴、盗撮される危険は避けられる。機密情報をビニール袋に入れて、穴を掘って隠すという古典的な方法をとることもあるんです」(北芝さん)
 
さまざまな場所に出没するスパイ。では、それを見破るにはどうしたらいいのだろうか。外交ジャーナリストで英国諜報部員を主人公にしたインテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』(新潮社)の著者である手嶋龍一さんは、こう話す。
 
「情報のプロは一見ごく普通の人に見えますよ。特に英国の要員は品がよくて聞き上手。まあ素人では見分けられないでしょう」
 
すご腕ほどごくごく普通の容姿をしているというし、見抜くのはかなり難しそうだが、常にどこかでスパイは活動している、というのも事実なのかもしれない。
※女性セブン2014年6月26日号

参照元 : NEWSポストセブン


ソ連国家保安委員会

ソ連国家保安委員会(ソれんこっかほあんいいんかい、露: Комитет государственной безопасности、略称:КГБ(カーゲーベー)、英: Committee of national security)は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。軍の監視や国境警備も担当していた。

東西冷戦時代にはアメリカ・中央情報局(CIA)と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行した。日本での略称は КГБ を翻字した KGB(露: カーゲーベー、英: ケージービー、独: カーゲーベー)が使われる。

(中略)

KGB職員
KGB職員の法律上の地位は、軍人である。当然、軍人と同じ階級呼称を有するが、人事管理は完全に区別される。KGBの組織は、軍の長所・短所をそのまま受け継いでおり、方針を巡る内紛が起こっても命令一下で解決する一方、しばしば、アネクドートで嘲笑されるように、モスクワからの指令なしでは動けない硬直性を有している。
 
KGB職員は、一般大学出身者が多い。海外のKGB代表部の情報工作将校には、大学卒業後に一般企業などに勤務した経験を有する者も少なくなかった。このことは、KGBが管掌する活動範囲がかなり広く、幅広い人材が必要とされたためと思われる。なお自ら志願したものは決して採用しなかったという。
 
国境警備隊については、将校は、一般の軍事組織と同様、高等国境指揮学校(士官学校)卒業生が占め、上級の教育はソ連軍の施設を利用した。下士官以下の国境警備隊員は、召集兵である。
 
軍部隊に配属される公安将校は、一般に該当軍部隊の将校の中から選抜されて、KGBの課程を受けて任命される。このため、公安将校は、配属先の将校と同等の知識、経験を有している場合が多く、冷戦時代に書かれた小説のようなKGB将校とソ連軍将校(主に、GRU(ソ連軍参謀本部情報部))間の軋轢は少なかったという。
 
また、これも小説などでの描写とは異なり、KGB職員はその身分が明らかになっている場合でも、ソ連国民からマイナス感情を向けられることは(絶無ではなかったにせよ)あまりなかったといわれる。これは、実際にKGB職員に対して不適切な態度をとれば後で何が起こるか分からないという恐怖心もさることながら、KGBが国境警備や防諜といった国家の安全保障に直接かかわる分野を担当していることが国民にも知られており、むしろ頼もしく思われていたという理由もある。
 
KGB職員は、採用直後にKGB大学校で情報工作課程と語学課程を受けてから、それぞれの部門に配属されていた。海外のKGB代表部には現地語の語学課程を終えた情報工作将校が10年前後にわたり配置されるのが一般的であった。アメリカCIAの工作官は、同じく情報工作課程と語学課程を受けていたが、海外のCIA支局を2〜3年で配置を変えていた。KGBでは幹部職員といえども、専門家を育成しようとしていたことがうかがわれる。

KGBに関係する地名
ルビヤンカ (Лубянка) - 1918年にチェーカーが本部を置いて以来の国家保安機関の中心地。現在、ロシア連邦保安庁の本部庁舎と逮捕したスパイを収監する監獄が存在する。現在の建物は1900年に完成した商業ビルを増築したもので、隣接して百貨店『子供の世界』がありKGBの本部要員が自分から名乗る場合にはこちらは百貨店「子供の世界」の隣の者だがという具合に呼称していた。
 
現在は撤去されているが、広場の前にはチェーカーの指導者、フェリックス・ジェルジンスキーの像が立っていた。

ヤセネヴォ (Ясенево) - 1972年に対外諜報を担当する第1総局がここに移転した。現在、ロシア対外情報庁の本部庁舎が位置する。人里離れた森の中に位置するため、KGB職員のスラングで、「森」 (Лес) と呼ばれた。秘密保持のため、3重の検問が存在し、職員の出退勤時には、特別のバスが運行され、民警がモスクワ環状線の交通を停止させた。
 
レフォルトヴォ (Лефортово) - KGB管轄の刑務所。正式名称は、レフォルトヴォ一時収容取調拘置所であり、未決囚を収容するための施設である。建物は、1881年に建築され、帝政時代、既に刑務所として使用されていた。事後、連邦保安庁に至るまで国家保安機関により管轄されている。欧州会議加盟国の基準に従い、2006年に法務省に移管。1997年に史上初の、また2005年には、2度目の脱走が起こった。

歴代KGB議長
イワン・セーロフ (1954年 - 1958年)
アレクサンドル・シェレーピン (1958年 - 1961年)
ウラジーミル・セミチャストヌイ (1961年 - 1967年)
ユーリ・アンドロポフ (1967年5月 - 1982年5月)
ヴィタリー・フェドルチュク (フェドルチューク、1982年5月 - 1982年12月)
ヴィクトル・チェブリコフ (1982年12月 - 1988年10月)
ウラジーミル・クリュチコフ (1988年10月 - 1991年8月)
レオニード・シェバルシン(1991年8月)臨時代行
ワジム・バカーチン (1991年8月 - 1991年12月)
 
KGB出身の著名人
KGB職員は、ソ連の一般人よりも国際情勢や国内の真の状態について通じていたため、ソ連崩壊後もロシアのウラジーミル・プーチン大統領をはじめ各国の政界等で成功し、いわゆるシロヴィキの中核を構成している。
 
セルゲイ・イワノフ - 第1総局
アレクサンドル・コルジャコフ - 第9局
セルゲイ・ステパーシン -
ニコライ・パトルシェフ - レニングラード支局
エフゲニー・プリマコフ - 第1総局
ウラジーミル・プーチン - 第1総局
セルゲイ・レベジェフ - 第1総局
ワシリー・ミトロヒン - ソ連崩壊後、膨大な機密文書(ミトロヒン文書)を持ってイギリスに亡命した文書管理官
ヴィクトール・オレコフ - 第5局 反体制派の弾圧を担当していたが、『収容所群島』等の発禁処分を受けた反体制派の本に衝撃を受け、反体制派を支援するようになった。

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参照元 : ウィキペディア